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 みょうがの旅 19 おしほい 13 日向と日吉
      (世界戦略情報「みち」平成24年(2672)12月1日第372号)

●大國主神(おほくにぬしのかみ)の國造りを弟分として助けられていた少名毘古那神(すくなびこなのかみ)が突如として常世國(とこよのくに)に度(わた)られたことを大いに悲しまれていた大國主神の前に、「海(うなはら)を光(てら)して」顕現された大年神(おほとしのかみ)の神光も、福岡県糟(かす)屋(や)郡新宮(しんぐう)町磯(いそ)崎(ざき)鼻(ばな)の岬から冬至に立花山(たちばなやま)の上に立ち昇る一(いち)陽(よう)来(らい)復(ふく)の暁光だろうと考えた。それは、悲嘆に暮れるという、感情が陰気極まったときに顕れる陽光が「一陽来復」の考えに通じるからだけではない。
 『古事記』には、「此(こ)(大年神)は、御諸山(みもろのやま)の上(へ)に坐(ま)す神(かみ)也(なり)」とあり、御諸山は奈良県桜井市の大神(おほみわ)神社(大物主(おほものぬしの)大神=大國主神の和魂)のご神体=三輪山(みわやま)の別名だが、かつて述べたとおり、立花山も三輪山に通じる山だ。立花山は基本的に三つの峰からなり、しかも西方の福岡市東区下和白(しもわじろ)の大神神社の方向からは、すべり台のような主峰の立花山を中心に、向かって左手前には松尾岳、右手前には白岳というほぼ同形の円錐形の枝峰が並ぶ。三輪山はまた「美和山」とも書かれるが、立花山の三峰はほぼ同じ高さに見え、美しく調和している。下和白大神神社の丘の下から西に広がる住宅地も美和台と呼ぶ。勿論現代の地名だが、美和台の中の公園や坂道から見える立花山の山容は、まさに三輪や美和の文字を想起させる。立花山に今も跡が残る立花城の守護神としても崇敬されてきたこの大神神社は、神功皇后ご征韓の節、大和國出身の将兵が現在の福岡市東区上(かみ)和(わ)白(じろ)の地に駐屯の折に勧請され、それが下和白に分祀されたものだ。
●立花山の六(ろく)所(しよ)神社(天照大御神他五柱)と北西方向の磯崎鼻を結ぶ日向の線上に位置する高松神社には、大年神の母の大市姫命(おほいちひめのみこと)が鎮座され、元は磯崎鼻にあった磯崎神社には大己貴(おほなむちの)命(みこと)=大國主神と少彦名命(すくなひこなのみこと)も祀られる。
 その線上にはまた、日向國に流刑にされた父、平景清(たひらのかげきよ)との再会を求めてきた人丸姫命(ひとまるひめのみこと)を日向に向けて祀った人丸神社があることも前にご紹介した。人丸姫は母との死別の後、京都北嵯峨の叔父の元で育てられたと人丸神社のご由緒にある。嵯峨といえば、大年神の子、大山咋神(おほやまくひのかみ)を祀る松尾(まつのを)大社が有名だ。立花山の枝峰の一つ、松尾岳の名称は、松尾大神と関係すると思う。
 主峰の立花山と北側の枝峰の松尾岳の間には、唐から帰朝した直後の伝教大師最澄が天台宗最初の霊場、獨鈷寺(とつこじ)を開く。天台宗総本山の比(ひ)叡(えい)山(ざん)延暦寺(えんりやくじ)の護法神が、大己貴神と大山咋神を祀る日(ひ)吉(よし)大(たい)社(しや)であることと関係があろう。最澄生誕の地は日吉大社から少し東の、後に生(しよう)源(げん)寺(じ)が開かれた場所だ。つまり、故郷の信仰と相通じる土地柄である点も、立花山が天台宗最初の霊場に選ばれた理由ではないかと思う。
 このように、立花山の信仰が三輪山の信仰や日吉大社の信仰に通じることは明白だ。新宮町の磯崎鼻から、三輪山にも通じる立花山の上に冬至の日の出を遙拝する日向の信仰は、同時に日吉の信仰とも重なり合うのだ。三輪山の山頂を東南に望む麓には、宮中から天照大御神を遷し祀った笠縫邑(かさぬひのむら)に比定される檜原神社(ひばらじんじや)もあるので、この重なりにはやはり意味があるのだろう。
●日向の信仰の場も、日吉の信仰の場も共に相通じ、両方の場が重なり合うからこそ、記紀神話には大國主神から天孫=天邇岐志(あめにぎし)國邇岐志(くににぎし)天(あま)津(つ)日(ひ)高(だか)日子(ひこ)番能邇邇藝命(ほのににぎのみこと)への國譲りが語られるのではないか。本稿では、ご神饌の基本である水、鹽、米が禊祓と同時に生きる糧の象徴であり、また黄泉國(よもつくに)ではなく現世(うつしよ)で生きることが禊祓であると繰り返してきた。しかし、われわれの先祖は稗(ひえ)も主要穀物の一つとして食べてきた。仮に天孫を米の神とすると、日(ひ)吉(よし)大神や日(ひ)枝(え)大神とも申し上げる大國主神は稗の神と言えるのではないか。神道では米から造る酒を御神酒としてお供えするが、縄文時代の生活様式を色濃く残す、かつて蝦夷と呼ばれたアイヌは、稗で造る酒を最も尊ぶそうだ。わが国の歴史には蝦夷を辺境に逐うという一面もあったので、稲作が本格化する前は稗を最も尊ぶ信仰と生活があったのではないか。穀物の中でも、米と稗は水田でも栽培できる。米と稗の生産の場が重なるならば、稲作と稗作にまつわる信仰の場も重なるはずだ。
 わが国で最上の穀物が稗から米へと替わった背景は実に複合的だと思うが、副題「おしほい」ではとりあえず、稗が米より耐塩性が高い点に注目したい。阿波岐原(あはぎはら)にも通じる汽水域の葦津原の干潟と思われる、大國主神の國造りの舞台=葦原中國(あしはらのなかつくに)では、降雨や灌漑など淡水の影響で次第に土壌の塩分濃度が低下して稲作も可能になるから、神話も国譲りへと展開していくのだろう。
 伊勢神宮(天照大御神)の御遷宮と出雲大社(いずもおほやしろ)(大國主大神)の御遷宮が重なる平成二五年癸巳(みずのとみ)を間近に控え、故郷の新宮町で日向と日吉の信仰の重なりに気づいたのも、神仏祖霊の冥加だろうか。伊勢神宮の御遷宮は約千三百年の歴史の中で中断や延期されたりもしたが、基本的に二〇年毎に行なわれてきた。出雲大社の御遷宮の期間は一定ではなかったが、前回、伊勢神宮の御遷宮と重なった昭和二八年も癸巳だった。三輪山の神が蛇体の水神と考えられてきたことも思い合わせると、意味深長に感じられる。
(つづく)