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 みょうがの旅 20 おしほい 14 稗と入り江
     (世界戦略情報「みち」平成24年(2672)12月15日第373号)

●前号では、水田でも栽培可能な稗から米に五穀の主役がかわる複合的な背景の一つとして、大國主神が作り堅められる葦原(あしはらの)中國(なかつくに)の土壌の塩分濃度が降雨や灌漑など淡水の影響で次第に低下していき、耐塩性の高い稗から耐塩性の低い米の栽培が可能になったことに思い及んだ。それは、東日本大震災の津波で塩害に苦しむ農地で始められた、『東北コットンプロジェクト』の公式サイトを見ていた時だった。津波の塩害で苦しむ農地で、耐塩性が高く、加工して様々に商品化することも可能な綿を栽培して、農業の維持と東北の雇用安定を図るというプロジェクトだ。
 このサイトの中の「活動レポート」で、綿の芽の間引きと草取りの作業を紹介するページに、「(コットン)畑には、雑草も生えてきます。もともとは稲作をしていた畑のため、ヒエがたくさん!」とあるのに目が留まったのだ。そこでインターネットで「ヒエ」と「耐塩性」をキーワードにして検索すると、果たして稗は稲より耐塩性が高いとの情報が出てきた。
 また大己貴神=大國主神を日吉大神や日(ひ)枝(え)大神とも申し上げるので、仮に天孫=天邇岐志(あめにぎし)國邇岐志(くににぎし)日(ひ)高(だか)日子(ひこ)番能(ほの)邇邇藝命(ににぎのみこと)を米の神とすれば、大國主神は稗の神ではないかと考えた。
 ところで、大國主神の和魂と(にぎみたま)される大物主神を祀る神社として、旧讃岐國の香川県は仲多度郡の琴平町の象頭山に鎮座する金刀比羅宮も有名だ。公式サイト上のご由緒を読むと、次の箇所に目が留まった。
「……大物主神は、瀬戸内海の海水が深く湾入し、潮が常に山麓を洗う、湾奥に横たわる良き碇泊所であったこの琴平山に行宮を営まれ、表日本経営の本拠地と定めて、中国、四国、九州の統治をされた……」
 大國主神の國造りを助けられる神が『古事記』では大年神ともあり、その大年神の母=大市姫命をご祭神とする、福岡県糟屋郡新宮町の高松神社もまた、玄界灘に臨む磯崎鼻という岬から、東南方向に伸びる入り江(現在の湊川)の奥に鎮座されていることが想起された。大物主神や大年神やその母神も入り江と関わりがありそうだ。
●入り江は海水が深く湾入する地形で、その入り江に山から河川が流入していれば、山の土砂が河川で運ばれて、入り江に堆積していく。入り江の海面の面積は狭いので、さらに遠浅であれば、入り江に堆積する土砂が形成する地面も比較的平面で、堆積土壌の嵩もどんどん上がっていく。また、入り江は海面の横幅が狭いので、干拓のための土居、即ち堤防も築造の困難が軽減される。つまり、河川水が流入する遠浅の入り江こそ、後に平地での農耕生活を可能にする諸条件が最も揃う地形ではないかと考えられる。
 河川水が運ぶ土砂が入り江に堆積し、土居を築造して干拓しても、主に降雨や灌漑などで農耕が可能となる程度に土壌の塩分濃度が低下するには相当な年月を必要とする。しかし、そのうち耐塩性が高い稗の栽培が可能となり、さらに年月が経てば稲の栽培も可能となっていく。そして、生活する土地の環境が変化して、稗も稲も栽培可能となると、精白に多大な労力を費やし、歩留まりも悪く、味も劣る稗よりも、米を求めるようになるのは、ごく自然な成り行きではなかったか。
 ただ、このような自然環境や生活環境の変化は長期にわたる複合的な変化である。また、水田に自生してくる稗を「雑草」として除草するのは未経験だが、稲作においては大変な労力を要する作業のようだ。これらのことが、記紀神話において稗の神=大國主神から米の神=天孫への国譲りが大きな割合を占め、複雑な展開を見せることに反映されているのでないか。
 こうしてみると、大國主神の和魂=大物主神を主祭神とする金刀比羅宮のご由緒の先の一文は意味深長だ。また、ご神徳が大物主神に通じる神を大年神と申し上げ、しかも稲荷神=宇迦之御魂神の兄神と『古事記』にあるのも、入り江に堆積してできた土地が長い年月を経て塩分濃度が低下して、稲作も可能な土地になることに関係しよう。ならばこそ、この兄弟神の母=大市姫命を祀る高松神社も、今は湊川と呼ぶ往古の入り江の奥に鎮座されるのだ。
●稗穂の実物を直に見たことはないが、例えばウィキペディアの掲載写真を見ると、稗は一本の棒に絡み結ばれた白黒斑模様の蛇のようだ。稗の神、大國主神の和魂=大物主神、即ち三輪山の神が、蛇体の水神と考えられてきたのも、この形状と関係があるのだろうか。
『古事記』の元は、天武天皇が舎人(とねり)の稗田阿禮(ひえだのあれ)に誦(よ)み習(なら)はしめられたものだ。『古事記』編纂千三百年の節目である平成二四年壬辰に「みょうがの旅」は始まったので、筆者の道(みち)行(ゆき)も自ずから『古事記』に立ち帰ることが多くなり、普段いつも、舎人学校で用いられた『ふることふみ かみよのまき』を持ち歩く一年だった。そして来年の癸巳を迎える前に奇しくも稗田の稗に思い至ったのも神仏祖霊、読者諸氏のお導きと感謝して、今年も一陽来復の日の出を拝したい。が、その場所は新宮町とは限らない。そもそも阿波岐原はそこに限らないからだ。 (つづく)