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 みょうがの旅 28 おしほい 22 罪穢と貪瞋痴
        (世界戦略情報「みち」平成25年(2673)5月1日第381号)

●前号までは伊邪那岐命の禊祓と宇賀弁才天修儀とが、どちらも一年の中で陰気極まる冬至に旭が立ち昇り、一陽来復を祈り感謝する方位、即ち東南=巽が意識されていること、またいずれも稲作と米に深く関わること、そして稲作自体或いは稲作を通じた生活や生き方も禊祓に通じるのではないかと、山本ひろ子著『異神 中世日本の秘教的世界』(ちくま学芸文庫)下巻の第三章「宇賀神―異貌の弁才天女」も読みながら気づかされてきた。その結果、伊邪那岐命が禊祓に至るまでに重ねられた罪穢(つみけがれ)とは、宇賀神の福徳を授かることを障礙する三悪神が依り憑く三毒=貪(とん)瞋(じん)痴(ち)という、陰気極まる心の状態ではないかと思い至った。
 しかしこれは筆者の推論だけによるものではない。今年一月二七日に山口県岩国市の白蛇神社参詣の途中で通りかかった宇津神社で、予期せずいただたい簡潔明快な教えのおかげなのだ。丁度何かの祭典が始まる直前の様子だったので、御神前で参拝させていただいてもよろしいかどうか訊ねたところ、宮司は快諾してくださり、そればかりか御祭神(主祭神=天照皇大神と祓戸の大神=八十禍津日神、神直昆神、大直昆神)のご神徳について概ね次のようなお話までしてくださった。
 曰く、御祭神は罪穢を祓ってくださる神様であり、罪とは犯罪のことではなく、生きていく上で次々とわき起こる過剰な欲望のことであり、逆に穢とは意気消沈したり不快感や嫌悪感などを抱いた状態であり、当地の人々は毎月一日と一五日の二回宇津神社に参拝して、罪穢を祓っていただいている。
 筆者なりに言い換えると、罪穢とはあくまで心の状態のことであり、何やら望ましくない、穢らわしく忌避されるべき外的存在のことではないのだ。
 そのような外的存在に自分が否応なしに近接、接触せざるを得なくなったときに、自分自身が生活している時代や環境に左右される正悪や浄不浄の価値観に影響された心が、勝手に快不快の反応を示し、快楽をより強くより多く貪欲に求めたり、それが満たされないと瞋り或いは意気消沈して愚痴をこぼしたり、満たされぬ貪欲を正当化すべく邪な見方をしたりという、貪瞋痴こそが罪穢ということになろう。
 人間の生命維持には、空気、水、塩、火のほか、様々な栄養を摂るための食物も必要だが、食物は他の要素と違って、摂取する種類も量もある程度は選択し、増減させることができる。ということは、食物には人を贅沢にさせ、欲望を増長させる側面もあるということだ。食物のこの特徴に着目すると、例えば『大祓詞(おほはらへのことば)』の中で、国を「知(し)ろし食(め)せ」とか、願いを「聞(き)こし食(め)せ」という箇所の用字は意味深長で、単なる当て字だと済ます訳にはいかないように思われる。
●人間の生存に必要な一方、貪欲をかき立て、貪欲が満たされぬと瞋恚を募らせ、さらには愚痴邪見の迷妄に導く元になりがちな食物。その食物神と思われる大宜都比賣神(おほげつひめのかみ)のご誕生の後のさらなる神生みの営みで、伊邪那美命は火神の火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)のご誕生により身罷られる。先述の罪穢の話や貪瞋痴を引き起こす食物の特徴からすると、食物神を得た後、さらに神を欲した営みは過剰な欲望=罪だったのだろうか?
 結果的に最愛の妻を失うことになった伊邪那岐命は、瞋りに任せて実子の火神を斬り殺し、死後の世界である黄泉國(よもつくに)から愛妻を連れ戻すことを求められる。ここまで欲望が昂じた故なのか、愛しているはずの妻との約束までも破ってしまわれる。しかしその変わり果てたお姿を覗き見されると、今度は極度の不快と恐怖の感情に駆られて現世(うつしよ)に逃げ還られる。挙げ句には、現世と黄泉國との境で愛妻と言い争いまでされる。
 伊邪那岐命の禊祓が始まる前までの神話の展開を、仏教でいう三毒の視点から要約してみたが、生存に必要な一方で、三毒も容易に引き起こす食物の複雑な性格が窺われる。
●弁才天修儀では、この食物を代表する米の字を、三毒に依り憑く三悪神のいる巽の虚空に書いて捧げることで、悪神の障礙を防ぐ門前作法があることを『異神』から繰り返し引用してきた。興味深いことに、『古事記』にも同様な記述がある。伊邪那岐命も黄泉國から逃げ還られる途中で、よもつしこめに蒲子(えびかづらのみ)(ヤマブドウ若しくはエビヅルの実)と笋(たかむな)(タケノコ)を与え、八雷神(やくさのいかづちがみ)の撃退には桃子(もものみ)を使われた。よもつしこめと八雷神を悪神とすると、これら悪神の難から逃れるのに食物が用いられたのは、弁才天修儀の門前作法にも通じるのではないか。
『異神』によると、三悪神は荒神でもあり、この門前作法の本質は荒神供養である。他方、荒神は衆生の祖先神や先祖霊とする信仰があることを思えば、荒神供養は先祖供養である。死者の住む黄泉國のよもつしこめも八雷神も、荒神=祖先神の範疇に入るならば、伊邪那岐命が禊祓の前に、よもつしこめと八雷神へ食物を与えてそれらの難を避けられたという神話は、中世のわが国で生まれた弁才天修儀の門前作法としての荒神供養にも受け継がれたものと考えられる。(つづく)