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 みょうがの旅 29 おしほい 23 荒神の供養と降伏
         (世界戦略情報「みち」平成25年(2673)5月15日第382号)

●『古事記』において、禊祓をされる前の伊邪那岐命が黄泉國(よもつくに)から逃げ還られる中で、よもつしこめに蒲子(えびかづらのみ)(ヤマブドウまたはエビヅルの実)と笋(たかむな)(タケノコ)を与え、八雷神(やくさのいかづちがみ)には桃子(もものみ)を投げてそれらの難を逃れられたことが、中世にわが国で生まれた弁才天修儀において荒神による障礙を避けるために米の字を巽の虚空に書いて捧げる門前作法にも受け継がれたのではないかと前号では考えた。
 荒神とは祖先神とする信仰があり、ならば、死者の世界の黄泉國のよもつしこめも八雷神も祖先神=荒神の範疇に入ると思われるからだ。
 山本ひろ子『異神 中世日本の秘教的世界』(ちくま学芸文庫)下巻の第三章「宇賀神―異貌の弁才天女」によると、荒神とはまた、生者の貪欲、瞋恚、愚痴邪見に依り憑く悪神でもあり、荒神に食物の象徴たる米の字を捧げることで荒神を鎮め、宇賀弁才天の福徳を障礙する働きを予防するものだった。
 食物を捧げて御魂を和め鎮めるのは荒神やよもつしこめ、八雷神だけでなく、食物を捧げることは神仏祖霊の祭祀の基本的な要素だが、筆者の家では昔からお盆の先祖供養に際しては、「餓鬼どん」と呼ばれる、文字通り貪欲に餓えた鬼にも別に食物をお供えする。同様の風習は広く見られるだろう。
●さて、伊邪那岐命の禊祓が死者の世界の黄泉國から現世(うつしよ)に還られた後のことである点に注目し、また人生は魂の修行だとの本誌編集者天童竺丸氏の持論に触れた筆者は、現世の人生を全うすること自体が禊祓=魂の修行であり、何らかの縁あって特定の時代と場所に生活する中で、意識するとしないとに関わらず積もりつもっていく罪穢を祓いながら生きていくこと、そうして「魂が清(す)んでいくこと」が「住む」と本来は同義ではないかとも考えてきた。
 さらには、自ら禊祓をしたり魂の修行をすることは、現世に生きている間こそ可能なのではないかとも思われる。
 ならば、生命維持に必要な食と禊祓には密接な関係があるのではないか。
 死者の霊魂は自己の肉体と食への執着を容易に断ち難いものの、実際は肉体を持たぬが故に自ら食物を手に入れて食べることができない。そのため、死後も積もりゆく自らの霊魂の罪穢を祓うことができず、それ故に生者から祭祀や供養を受けて鎮魂される必要があると考えられてきたのではないか。
●祭祀や供養が何らかの理由で絶えてしまうと、死霊は貪瞋痴(とんじんち)を募らせて荒神となり、貪瞋痴の三毒=陰気の感情を媒介として生者に依り憑き、その生者が神仏の福徳を授かるのを障礙する。
 黄泉國で伊邪那岐命をよもつしこめと八雷神が追い駆けるのも、貪瞋痴の三毒=罪穢の元凶にも容易になりうる食物の神=大宜都比賣神(おほげつひめのかみ)を得てなお、さらに神生みを望まれた伊邪那岐命の貪欲と、愛妻の死に対する悲しみや、それをもたらした火神への瞋り、そしてまた、死後の愛妻を蘇生させようとする貪欲、変わり果てた愛妻のお姿への嫌悪と恐怖等々の陰気極まる感情=三毒に共通するものを、よもつしこめと八雷神も持つからではないか。
 よもつしこめが漢字で黄泉醜女とも書き表しうるとすれば、それは火神を生みませる後に黄泉國に神去られ、黄泉國の食物を食べ、醜い姿となられて荒神と化した伊邪那美命の分身とも思われる。八雷神も『古事記』によれば、伊邪那美命の遺体の各部に成れる神々である。しかも、伊邪那美命がこのような醜いお姿になられたのも、食物神の大宜都比賣神ご誕生の後にさらに神生みを望まれた過剰な欲望=貪欲=罪が、そもそものきっかけだった。
「類は友を呼ぶ」という言葉がある。他人同士でも互いにどこか共通部分があるから互いに引かれ合い、交際が始まり、終世の友や伴侶となる場合もある。良縁もあれば、悪縁、腐れ縁と呼ばれるものもある。神仏諸霊との縁も同様だろう。さらにまた、吉事や凶事でさえも心の状態が引き寄せることを、わが国初の真言宗霊場である福岡市博多区の東長寺の不動護摩供の法話で以前聞いたことも思い出した。
 このように、伊邪那岐命と黄泉國のよもつしこめと八雷神は貪欲を介してつながる。その故もあって伊邪那美命はよもつしこめと八雷神に伊邪那岐命を追い駆けさせられたのだと思う。
●ところで、蒲子や笋はよもつしこめに食べられることで、その難を間接的に避ける手段となったが、桃子は八雷神を直接撃退する効果があった。蒲子と笋、そして桃はどれも食物で、黄泉國の荒神の難から伊邪那岐命を救った点では共通するが、救い方が対照的だ。その上、伊邪那岐命は桃に対してだけは、後世も「青人草(あをひとくさ)の、苦瀬(うきせ)に落(お)ちて、患惚(くるし)まむ時(とき)に、助(たす)けてよ」(『古事記』)と、苦境にあえぐ人間の救済を頼まれる。桃に対する特別な信仰は、桃から生まれて鬼退治をする『桃太郎』の民話にも受け継がれたのだろう。
 興味深いことに、弁才天修儀でも、巽にいる荒神を米の字で供養する一方、本尊の宇賀弁才天は正反対の乾に常に止住することで荒神を降伏(ごうぶく)する。荒神による障礙の難を避けるという同一の目的でも、供養と降伏の対照的な働きが一組となっている。 (つづく)