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 みょうがの旅 32 おしほい 26 未敷蓮華の宝珠
        (世界戦略情報「みち」平成25年(2673)7月1日第385号)

●陰性と陽性の二つの食物が一組となって障礙神を供養することで、障礙神の陰気極まる状態を陰陽調和の方向へ和め鎮めること、それに対して、一つのものが陰陽均等に分かれだし、陰陽二気を放つ強烈な力を持つものは障礙神を降伏(ごうぶく)し、それ故に宝珠と信じられてきたのだとの仮説に、前号は至った。
 黄泉國(よもつくに)で伊邪那岐命を追うよもつしこめが貪り食べた蒲子(えびかづらのみ)と笋(たかむな)は、弁才天修儀で荒神に奉られる「米」の字を書く所作にイメージしうる毛筆=毛の束+竹軸に二重映しであり、これらは陰と陽とが一組となって、陰気極まる荒神の御魂を和める効果があった。「米」の字もまた、陰陽の組合せを二つも重ね合わせたものだと知った。
 それに対して、一つの球が陰陽均等に分かれつつある形の桃子(もものみ)は、黄泉國の八雷神(やくさのいかづちがみ)と黄泉軍(よもついくさ)を撃退した。
 荒神を降伏する蛇体の宇賀神は稲魂を掌り、稲作の期間も陰陽相半ばする春分の頃から秋分の頃まで、また蛇が地上に姿を見せるのも陰陽等分の春の彼岸から秋の彼岸までの時期に重なる。
 そしてこれら陰陽等分が意識されたものに降魔の霊力が認められ、宝珠と崇められたとした。こう仮定すると、稲魂を掌る白蛇姿の宇賀神の別名が如意宝珠王であり、桃の実が絵や菓子など人工物の場合は実際の球形ではなく宝珠形に象られてきたのも首肯できる。
●宇賀神が一身に陰陽二気を均等に内包、放出しうることは、山本ひろ子著『異神 中世日本の秘教的世界』(ちくま学芸文庫)下巻、第三章「異貌の弁才天女」を改めて読み返してみると、弁才天修儀の表白の段で「宇賀神将の根源性が、『天地ノ起リノ起リ』『陰陽ノ初メノ初メ』と描出される」宇賀神の神徳を讃仰する唱句にも明らかだった(七七頁)。特に「陰陽ノ初メノ初メ」とは、前述の一体のものが陰陽に分かれ始める桃の実の形を連想させる。
 同書にはこの観点からして興味深い指摘が他にもある。弁才天修儀で重視される秘印の一つ、未敷蓮華(みふれんげ)印だ。これは両掌を合わせた合掌の状態から、両手の中指だけ左右に微かに開いた印で、「半ば開いて、まさに満開しようとする蓮華」を示す(七三頁)。
 そしてこの印には二種の観法があり、

「浅略観」の場合、未敷蓮華印は「宝珠」を、…表わし、…一方「深観」では、未敷蓮華とは「一切衆生迷々トシテ、本覚ヲ覚ラザルノ間」だが、「開悟スベキ」相が兆してきたので、「二中指ヲ微カニ開ク」(七四頁)

 未敷蓮華は蓮華の蕾がまさに開花しようとする状態のことであり、それを両手の中指だけ微かに左右に開く形で示すのも、それこそ一体のものが陰陽に等しく分かれ始めることを象徴するものだと云える。しかもその状態が「宝珠」と観じられるのだ。ここでもやはり宝珠たりうる条件が、陰陽二気を一身の中に均等に内包し、両者の境界が意識されうるものだと認められる。
●ところで、この宝珠も元々は「一切衆生迷々トシテ、本覚ヲ覚ラザルノ間」の状態から出現する。これは、貪瞋痴の三毒に支配された状態、そしてその三毒に荒神が依り憑いた状態、また神道的には罪穢の状態とも言いうる。伊邪那岐命も黄泉國から逃げ還られるまでに多くの罪穢を重ねられた。だが、八雷神と黄泉軍から必死に逃げられるうちに、いつしか黄泉比良坂に辿り着き、そこに生っていた桃の実を手にされた。黄泉比良坂=現世と黄泉國との境界で、実を左右(陰陽)均等に分ける境界が意識された桃が登場したのだ。
『古事記』のこの部分と先の宝珠=未敷蓮華の思想を比べると言葉の表現の違いを超えて、本質的には同じことを語っているように思われる。則ち、伊邪那岐命が罪穢を重ねられる様は、「一切衆生迷々トシテ、本覚ヲ覚ラザルノ間」に通じるのではないか。しかも『古事記』の序で伊邪那岐命は伊邪那美命とともに「二霊群品の祖」とあるので、伊邪那岐命は仏教的には「一切衆生の祖」と言える。こう考えれば、先の比較も荒唐無稽ではないだろう。
 そして、黄泉國と現世の境界=黄泉津比良坂で、これまた陰陽等分が意識されて宝珠に見立てられてきた桃の実を手にされた状態は、「開悟スベキ」相が兆してきたので、「二中指ヲ微カニ開ク」、宝珠を意味する未敷蓮華印を結ぶことに符合するではないか。
 合掌した両手の中指を左右均等に少し開いた未敷蓮華印=宝珠も、衆生が煩悩に苦しんだ末、神道的には罪穢を重ねた末に現れる開悟の兆し=煩悩と悟りの境界を示すのだ。
 改めて整理するとこうなる。

①「二霊群品の祖」の伊邪那岐命が罪穢を重ねつつも黄泉國から必死に逃げ還られるように、 伊邪那岐命の末裔たる「一切衆生」も「迷々トシテ、本覚ヲ覚ラザルノ間」貪瞋痴の三毒による 苦しみから脱しようと合掌して祈る。
②やがて、伊邪那岐命が黄泉國と現世の境界の黄泉津比良坂に辿り着かれたように、「一切  衆生」にも「『開悟スベキ』兆し」が訪れる。
③その時、伊邪那岐命が宝珠(桃の実)を手にされたように、「一切衆生」の合掌も左右の中指 が微かに開いて宝珠(未敷蓮華印)へと変化するのである。

(つづく)