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 みょうがの旅 34 おしほい 28 不二となる宝珠
        (世界戦略情報「みち」平成25年(2673)8月1日第387号)

●前号では宝珠と崇められてきたもの同士が、例えば桃=蛇のように、もはや別々のものではない不二の一つのものになることが認められた。桃=蛇を如実に示す好例として、山本ひろ子著『異神 中世日本の秘教的世界』(ちくま学芸文庫)下巻、第三章「異貌の弁才天女」に写真が載せられた、山形県の正善院に伝わる宇賀神像に注目した。この桃形の覆いの中でとぐろを巻いて鎮座する翁頭蛇体の宇賀神が、一般的には女性の髪型である桃割(ももわれ)と思われる蝶結びの髪型をしているからだ。
 そして、扁平な形をした桃が、蛇の姿態を念頭に置いた「蟠る」という言葉で形容され「蟠桃」と呼ばれることや、現在の滋賀県近江八幡市の繖山(きぬがさやま)に、蛇に殺された地元豪族の娘のお茶子姫の怨霊が桃割のブト(=吸血虫の蚋(ぶゆ))に化けた伝説を知るに及び、桃と蛇の密接な繋がりが改めて窺われ、正善院の蛇体の宇賀神像が、やはり蛇に通じる桃割の髪型になっている意味が今少し判ったのだった。桃割が蛇に通じるならば、蛇神の頭髪が桃割となるのはむしろ自然だろう。桃形の覆いの桃形の窓から顔を覗かせる、翁頭蛇体にして桃割の宇賀神は、桃と蛇が合体分離可能な二物の組み合わせではなく、桃も蛇も互いにもはや別物ではない一体不可分のものになっている。これは正に「…二つに見えて実は一つであること…」と『広辞苑』が説明する「不二」の関係にあることを示している。
●白蛇姿の宇賀神が稲魂を掌る神であることも、通説だからというのではなく、筆者なりに愚考を巡らしてみよう。
 一つは、大まかに言って稲作が一年の陰陽二気相半ばする春分の頃に始まり、再び両気が相等しくなる秋分の頃が収穫の時期であることと、蛇が地上に姿を顕すのが春の彼岸から秋の彼岸までと言い伝えられてきたことが考えられる。稲作の期間と蛇の地上生活期間の重なりも、我々の先祖が蛇を稲魂の神と信じた理由の一つかもしれない。
 しかも、宇賀神が特に白蛇姿であるのは、精米した米粒が白いことと関係するのではないか。白蛇の鱗状の表皮は、精白後の無数の米粒を連想させる。『異神』には、弁才天修儀の本尊=宇賀神像を翁頭蛇体に作らない場合は、宇賀神の種字(しゆうじ)を書いた四八粒の米が代用されたことが記されているが、その本尊を前にした行者の目には、四八粒の白米に宇賀神の白蛇の鱗状の表皮が二重映しとなっていたのではないか。そう仮定すると、宇賀神の体表は無数の米粒で覆われているようにも見える。
 米粒同士が連なるとすれば、それは炊きあがって粘着性がでた米粒だろうか?炊いた米粒は互いにくっついたまま乾燥してこわばる。米粒の集まりのような白蛇の表皮もやがて古びていくが、その下ではやはり米粒が連続するような表皮が瑞々しく形成されてきて、乾燥しこわばった表皮の脱皮となる。
 このような白蛇の生態をみると、白蛇は体表が米粒に覆われているだけでなく、あたかも体内から体表へ米粒が次々と浮き上がってくるようにも想像される。つまり白蛇の生態そのものが、米を次々と産み出すことに通じるともいえる。それは筆者の妄想だと叱られるかもしれないが、こう考えると、稲魂の神が白蛇姿でなければならない必然性が今少し判るのではないか。そして、蛇の体内から形成される白い鱗=米粒が体表を包むことは、蛇と米もまた別々のものではない、則ち不二のものであるとの信仰に繋がるからだ。
●わが国で蛇が神聖視されてきた理由の一つとして、脱皮が禊祓に通じることがしばしば指摘されるが、わけても白蛇の姿をとる宇賀神が稲魂を掌ると信じられたことに、稲作を通じた生活自体が禊祓に通じるとの思想を記紀神話に見出してきた筆者としては大きく首肯したくなる。白蛇姿の宇賀神の体内から次々と鱗状の表皮が形成されることは稲作に通じ、その脱皮は禊祓に通じることになる。つまり、宇賀神の白蛇の表皮は稲作と禊祓を同時に象徴するものと言える。それはまた、白蛇と米が不二であるだけでなく、稲作と禊祓も不二であることを示す。
●開花直前の蓮=未敷蓮華(みふれんげ)もまた、米や蛇や桃と並び宝珠と崇められてきた。各地の稲荷神社などで見られる宝珠の画像に最も近いのが未敷蓮華だ。蓮が生える池沼は、米を栽培する水田を連想させる。水田は畦に囲まれて淡水を湛えた泥土であり、それと似た環境の泥土に根を張り、茎が水中を経て、水面の上に葉を広げ、蛇の頭にも見える蕾が所々伸び上がり、未敷蓮華は、稲穂ほどではなくともやや頭を垂れる。蓮の花弁は上端から中程まで桃色に染まり下部は白い。この花弁が宝珠形に凝集した様は、桃の実に似る。各々が宝珠である米、蛇、桃、未敷蓮華はまた、自然界のありように基づいて相互に結ばれ、不二となったと思われる。
 先月、東京は上野の不忍池で蓮見を楽しんでいると、池中の辯天堂の緑色の屋根と金色の宝珠も、蓮の葉と未敷蓮華に見えてきた。水田同様に泥土に淡水を湛えた不忍池の未敷蓮華、そこに浮かぶ辯天堂の屋根の宝珠、辨天堂のご本尊=辯財天が戴く稲魂の翁頭蛇身の宇賀神、その各々が相互に不二の宝珠と観じられたのだ。
(つづく)