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 みょうがの旅 39 おしほい 33 宝珠を生む禊祓
        (世界戦略情報「みち」平成25年(2673)11月1日第392号)

●陰陽の交わりによって、陰陽二気を一身に内包し、その両方の力を発揮しうる陰陽不二の宝珠が新たに生まれ、それが他の宝珠と不二にならんとして交わり、さらに新たな宝珠が生まれる。この営みが悠久の年月に亘って繰り返されていくことで宝珠の連なり全体がまた一つの宝珠として磨かれていく。ならば、二六七三年の歴史を持つわが国の皇統と、天皇を拝戴する國體もまた、宝珠であると観じた次第だった。
 この間、数々の内憂外患や天変地異、人心の荒廃などで、ややもすれば国家存亡の危機もあったが、それにもかかわらず、わが国の皇統と國體が続いて来たこと自体が奇跡にも思われる。
 皇統と國體が何故これほどの長きに亘って続いてきたのか?歴史の専門家でもない筆者だが、一日本人として思いを巡らすことは時に必要だろう。
 今の処は、皇統と國體が陰陽不二の宝珠だからと考える。人間も含めた万物は陽や陰に傾きがちだが、そのいずれかを偏重して他を排除しようとせず、両方の均衡と統合に務めてきた、日本古来の信仰に帰因するのではないか。陽を善や光明、陰を悪や暗闇と仮定すると、わが国では極陽の絶対善や理想世界などは追求されなかった。『古事記』を読んでも、全知全能の最高神は登場しない。始源の天之御中主神も、「二靈群品の祖」の一柱伊邪那岐命も、皇祖神の天照大御神も最高神ではない。歴代天皇の中には現代的観念から大きく逸脱するご事績が記される場合もある。それでも、わが国は天皇を拝戴し、八百萬の神々を祀ってきた。それは、個々の時代性に左右される価値観に基づく絶対善や理想世界への志向に潜む、独善性を見抜いていたからではないか。
 善悪の判断は人間のその時々の心の状態にさえ大きく左右され、理想世界は人間の頭の中にだけ存在するものだ。
 にもかかわらず、理想を現実にしようとすると、個々の人間の力には限りがあるので、大勢の「同志」を求めたがる。だが、「聖人」が理想を唱えても、「同志」各自の頭の中の理想と完全には一致しない。このズレは総論賛成・各論反対の分派と対立を生み、「同志」集団内外への暴力にもつながる。さらに、理想世界の実現や革命のための暴力は必要悪や聖戦だとする、本末転倒の論理が暴走する。「善」や「正義」の追求がいかに危険なものを孕んでいるかは、絶対善や理想世界を希求する一神教的な宗教が、次々と分派を生んでは対立し合い、時に流血の惨事を繰り返す事実からも窺われる。
●自然界の諸々に神を認め、先祖を遡れば自らも海の生物という自然に帰することを意識してきたわが国の信仰は、人間の歴史も自然界の営みに通じることを示す記紀神話を生み出したと思う。自然界は多様であり、人間も千差万別だ。自然が恵みだけでなく災厄ももたらすように、個々の人間も時に善行や悪行、また善悪の判断が容易ならぬ多様な役割を演じる。そのことが、歴代天皇や様々な氏族、人物の事績を通じて示されたのが記紀神話だと思う。
 これは善と悪、光と闇の戦い、或いは神々の争いと解釈して済む話とも、いずれの側が最終的に勝利するかという発想とも別次元の世界観だ。人間の善悪の価値観を絶対視せず、善悪も吉凶も自然の営み=神意の顕れと受け止め、人間が自己を省みるべく、神々の祭祀を行い、神意を伺い、自然=神々に人間を調和させて「神人合一」し、生存の安定化と長寿を求め、それが現世での魂の修行=禊祓を可能にし、ひいては子孫の存続と家系全体の禊祓につながると考えられたのではないか。
●人間はそれでも罪や穢に傾きがちだ。だが、自然との調和を欠いた結果の失敗や災厄も、禊祓うことで事態が新展開を見せ、禍が思わぬ幸いに転ずるとの思想がわが国にはある。その雛形は、伊邪那岐命の禊祓の末に三貴子(みはしらのうづのみこ)がお生まれになったことに示される。
 三貴子のうち天照大御神は伊邪那岐命が左目を洗われたとき、月讀命は右目を洗われたときに誕生された。これは人間が禍に直面するに至った自らの目の曇りを除く反省の象徴でもある。
 右の気づきに導いてくださったのは、日本三大八幡の一つ、筥崎宮(福岡県福岡市東区箱崎)の田村邦明権宮司の次の一言だった。

禊祓とは「見直し、聞き直し」、つまり反省するという意味です。

 ならば、禍を福に転ずるのは、技術や特効薬などの賢しらな人為ではなく、自己をじっくり顧みることではないか。
 伊邪那岐命も、自然界の他の生物は身につけぬ衣服や装飾品を祓い、何の人工物も纏わぬ本然の姿に戻り、人間の生命に必要な淡水と、遠い祖先が生きていた海の水が交じる汽水域の中瀬(なかつせ)で禊されて三貴子を得られた。心の陰陽(罪=過剰な欲望と穢=気枯れ=不満や怒りや意気消沈)の混交する様や、自然界と人間界、過去と現在、祖先と自己の交錯する様を、海水・淡水混交の場で観察に徹すると、陰陽の対となる諸々が、思慮分別を超えた形で不二一体化して宝珠に結実するとも云える。禊祓は善悪を常識で分別して悪を排する独善ではない。善悪混交の諸相を観る目を常に新たにしていくと、新たなみちが開かれるのだ。 (つづく)