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 みょうがの旅 41 おしほい 35 役割や順逆の混迷
         (世界戦略情報「みち」平成25年(2673)12月1日第394号)

●陰陽が不二一体化して宝珠が生まれ、さらに磨かれていくには、陰と陽とが各々異なる役割を保ちつつ、長い年月と多くの段階に亘って協同していくことが必要だと想到した。
 父母=陽と陰が不二一体化した宝珠として生まれる人間が、新たに陰陽不二の宝珠を生み出すには、個々の人間が陰陽いずれかの特徴を著しくした男女の大人に成長する必要がある。男の身体で生まれたら精神的にも男に、女の身体ならば精神的にも女にならねばならない。そうして、男と女は各々の役割を果たすことができる。社会の基本単位たる家族においては尚更だ。こうして、新たに陰陽不二の宝珠=子に恵まれ、やがて子が男女いずれかの大人に成長し、さらに新たな宝珠を生み、人生という魂の修行=禊祓と、家系全体、社会全体の禊祓が続いていく。
 ところが現代のわが国では、伝統的に男が努めてきた役割や領分に女が進出し、逆に男は女が担ってきた家事や育児の分担を増やすことが先進的な男女観、家族観とされつつある。だが、これは男女の中性化でもある。凹凸の差違あってこそ陰と陽とは結合しうるのに、互いに中性化して凹凸の差違が縮小すると、陰陽の結合も、陰陽不二の宝珠の生成も難しくなる。つまり、結婚や子作りが難しくなり、その過程を経て父母が精神的にも陰陽不二の宝珠に成長するのも困難となる。これが実は、わが国の非婚や離婚、流産や死産、不妊による少子化の要因の一つではないかと思い至った。
『古事記』では、伊邪那岐・伊邪那美二神の「みとのまぐはひ」について、男神が主導すべき処、最初は「女(をみな)を言先(ことさき)だちしに因(よ)りて」、水蛭子(ひるご)と淡嶋(あはしま)が生まれたが、将来的に宝珠=土珠へと成長すべき国土としては脆弱なためか、「子(みこ)の例(かず)に入(い)らず」と記される。
 また、伊邪那岐命が黄泉比良坂(よもつひらさか)で黄泉國の出入口を塞いだ千引石(ちびきいは)を挟んで伊邪那美命と対峙されたときも、女神が先に「一日(ひとひ)に千頭(ちかしら)絞(くび)り殺(ころ)さむ」と口火を切られる。ここでも、「みとのまぐはひ」の最初の失敗について天神(あまつかみ)が教え諭された、「女を言先だちしに因りて良(ふさ)はず」の一言が想起される。
 しかし、伊邪那岐命がこれに対して、「一日(ひとひ)に千五百(ちいほ)産屋(うぶや)立(た)ててむ」と言を直されたことで、死者の数以上に出生がもたらされ、人口が漸増していく。『古事記』に鑑みると、現代のわが国はまさに、「女を言先だちしに因りて良はず」の段階で、まだ伊邪那岐命が言を直されるには至らぬ故に少子化と人口減少が進んでいるのではないか。ヒロインが果敢に恋愛感情を告白して結婚のプロポーズをするようなドラマや「草食系男子」の増加も、少子化を促進しているように思われる。
●だが、男が弱さを、女が強さを露わにするのは現代の特異性ではないことが、『古事記』を誦み直すとわかる。
「みとのまぐはひ」で伊邪那美命が「あなにやしえをとこを」とつい言先だち、黄泉比良坂で伊邪那岐・伊邪那美二神が「事戸(ことど)を渡(わた)す時(とき)」も女神が先に口火を切られるのは、前述の通りだ。
 それより前に、伊邪那美命が神避(かむさ)られた時の伊邪那岐命は女神の「御枕方(みまくらべ)に匍匐(はらば)ひ、御足方(みあとべ)に匍匐(はらば)ひて、哭(な)きたまふ」後に、黄泉國へと向かわれる。
 また、伊邪那岐命の禊祓で誕生された男神の建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)は、「海原(うなばら)を知(し)らせ」と父神に命じられるも、「僕(あ)は妣(はは)の國(くに)根之堅洲國(ねのかたすくに)に罷(まか)らむと欲(おも)ふが故(ゆゑ)に」大人になっても泣き続けられた。
 その子孫の大國主神は、國作りの協力者の少名毘古那神(すくなびこなのかみ)が常世國(とこよのくに)に去られると、「吾(われ)獨(ひとり)して何(いか)でかも此(こ)の國(くに)を得(え)作(つく)らむ、孰(いづれ)の神(かみ)と與(とも)に吾(あ)は此(こ)の國(くに)を相(あひ)作(つく)らまし」と悲嘆に陥られる。
 天照大御神の御曾孫の山佐知毘古(やまさちびこ)は、兄の海佐知毘古(うみさちびこ)と生業の道具を取り替えられた処、兄の釣針をなくしたことをどうしても許してもらえず、万策尽きて「泣(な)き患(うれ)ひたまふ」のである。
 このように、男が弱さを垣間見せる場面は少なくない。これに関する筆者の愚考は後述するが、男女関係同様、個々人の社会的役割の分担も、各々がその役割を果たさねば、様々な禍が出来するとの示唆が興味深い。さらには、亡き母のいる死者の世界=根之堅洲國に罷ろうとして泣き続けられた須佐之男命については、「靑山(あをやま)を枯山(からやま)如(な)す泣(な)き枯(か)らし、河海(かはうみ)は悉(ことごと)に泣(な)き乾(ほ)しき。是(ここ)を以(も)て惡神(あらぶるかみ)の音(おとなひ)、狹蠅(さばへ)如(な)す皆(みな)涌(わ)き、萬物(よろづのもの)の妖(わざはひ)悉(ことごと)に發(おこ)りき」と続く。この世に生を享けた者、則ち人生という魂の修行=禊祓をすべき者が、安易に死を選ぼうとすると、自然災害が頻発し、環境破壊が進み、社会の混迷が深まるという示唆なのだろうか?
 男女の役割の混迷や逆転と中性化、自殺の増加、非婚や離婚の増加、不妊、流死産の増加、少子化や人口減少等々、人間だけの問題と思われることが、自然災害や環境破壊にも関係するのか。
 しかし、人間の営みも神々=自然の営みに通じるという、わが国の自然神信仰からすれば、この発想は荒唐無稽ではなかろう。ここに列記した問題が日々耳目を騒がす現代を、「科学的」常識に囚われず、『古事記』に鑑みて見直し、則ち禊祓をすれば、我々の目の前に予期せぬ形で新たなみちが開かれるような予感がする。(つづく)