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 みょうがの旅 44 おしほい 38 いのちを伝える
        (世界戦略情報「みち」平成26年(2674)2月1日第397号)

●父母不二の宝珠として生まれる人が同じく宝珠たる子を生み育て、子孫と家系、さらには人間の種を存続させるには、天与の男か女の身体に随って、精神面も男か女の大人に成長することが必要だ。男は内面の女性性を、女は内面の男性性を超克していくことで、男女がうまく協同して新たな陰陽不二の宝珠が生まれ、育つように努める。つまり、人生は天与の身体の形を得ることに始まり、その形に合うように魂を磨いていく、謂わば「形から入る」ものなのだ。これは後世、武芸諸道の修練も「形から入る」文化を生み、今に続いていると思われる。「形から入る」という智慧の奥深さに今少し気づかされた次第だった。
 わが国の信仰は、陰と陽、男と女、外形と内実、肉体と霊魂、光と闇を、何やら対立的に捉え、例えば肉体に対して霊魂を偏重したり、とにかく光明ばかりを求めたり、人間中心の勝手な思弁による理想世界を志向し、最高神を信ずるか否かで人の正邪を決めつけ、何が尺度か実は不明な信仰心の程度で人の尊卑を云々するものではない。
 陰も陽も、男も女も、外形も内実も、肉体も霊魂も、光も闇も共に大切にし、双方が「競わず争わず」、各々の役割を担って互いを補完し、不二の宝珠を次々と生み育て、子孫と家系、人間の種が末永く存続することに主眼を置く。
 男女の平等も、各々の役割があるという意味で平等なのであり、男も女も同じことをするのでは、性別が神計らいによって存在することを否定することになろう。これは、わが国の信仰だけの話ではない。
 例えばキリスト教徒でありながら、社会的な仕事も家事も男女が平等に担うべきだと主張するのは、人間を男女に別けて造られた造物主たるキリスト教の神のご意志に反しはしないか?自然界の諸々の存在には、各々の役割を果たすことができるように、造物主が各々に特有の姿形を与えられたのではないのか?ならば、男女の身体の区別があるのも、各々担う役割が異なるためと、天与の課題を受け入れるのが、唯一神の御心に適う道ではないのか?
●しかしわが国にも、天与の男女いずれかの身体に応じた役割を全うせずに人生を過ごす人々が、いつの時代にもいた。その理由は千差万別で、筆者はそのような人々を非難しているのではない。彼(女)らを社会道徳から否定的に見るだけでは、独身者や子供を持たない夫婦や同性愛者との間に感情的な対立を引き起こし、畢竟彼らの社会的認知や権利を巡る対立と闘争と勝敗に問題の焦点が移りがちになる。
 そうではなく、陰陽双方を重視し、陰陽不二の宝珠=子孫=家系=種の存続を願いつつも、勝手な理想世界を求める独善を避ける「競わず争わず」の文化と、伊邪那岐命が両目と鼻を洗って三貴子(みはしらのうづのみこ)を得られた禊祓の神話を持つ日本人の一人として、筆者はまず自らの目から常識を洗い流してみたい。
●これまで考察してきたとおり、父母不二の宝珠として生まれる人間は、次に自らが新たな宝珠たる子を生み育て、子孫を存続させるために、男女いずれかの身体を授かる。しかし、父母不二として生まれるが故に、男は内に女性性を、女は内に男性性を宿している。天与の身体を活かすには、男は精神的にも大人の男に、女は大人の女に成長する必要があり、それによって今度は夫婦が精神的に不二の宝珠にもなることができる。これが、人間が種として存続するための基本である。この点を社会が真剣に自覚して努力しなければ、その社会は自滅に向かうだろう。
 他方、魂の修行=人生は一度きりではない。輪廻転生を繰り返し、単に男女の違いだけに終わらぬ、多様な男女の人生を数多く経験しながら、魂を少しずつ成長させていく。独身や、子を持たぬままの一生も、自らの意志だけに左右されるのではない。結婚や子宝を求めても、不思議とそれらが叶わぬ人生もある。わが国の昔話にも、子の無い老夫婦がしばしば登場する。独身だった男に、動物が妻として恩返しをする話もある。このように、基本形から外れた人生はいつの時代にもあった。ならばそれも、神計らいではないか?
 葉室賴昭春日大社元宮司は、自著の『神道 夫婦のきずな』(春秋社)の中でこう指摘しておられる。
 縁がなくて独身でいたというのなら、それは仕方ないことだと思います。そういうことではなくて、自分は一生結婚しないという男性や女性がいます。これは本当に神の意志に反すると思います。われわれはいのちを伝えるということをしているわけです。そうやって縁がなくて一生独身という人もいるでしょう。それはそれなりに社会に貢献して、ほかの人がいのちを伝えるのを助けるということならいいと思います。(九五頁)
 つまり、独身でも、子がなくとも、いのちを伝える人生は可能なのだ。ただ、方法が基本形と異なるのである。
 葉室宮司の指摘には、男女二神の(ふたはしら)「みとのまぐはひ」ではなく、男神一柱の禊祓によっても三貴子を含む神々がご誕生になることの意味を、結論を急がず、折に触れて見つめ直していく必要性も感じられる。
(つづく)