みょうがの旅    索引 

                   

 みょうがの旅 45 おしほい 39 天与の形に従う
        (世界戦略情報「みち」平成26年(2674)2月15日第398号)

●子々孫々にいのちを伝える。これが、我々の魂が男か女の身体を天与の形として得ることから始まる、人生という魂の修行の目的である。いのちを子孫という形にして残し伝えるには、子孫の形=身体を作るための結婚と子作りが必要である。それ故父母不二の宝珠として生まれる人間は、男は内在の女性性を、女は内在の男性性を超克して、その身体に応じた男か女の大人に精神的に成長し、天与の身体の形を充実させ、十分に活かしていかねばならない。
 だが、何らかの理由で独身だったり、子作りや子育てをせずに一生を送ってしまう人がいつの時代にもいる。社会常識からは中々肯定され難い人生だが、それはそれなりに社会に貢献して、ほかの人がいのちを伝えるのを助けることは可能だと、前号では思い至った。
 これは、伊邪那岐命一柱だけの禊祓によっても神々がご誕生になることを想起させる。そして、何らかの理由で独身のままや、子宝に恵まれなかったり、離婚したり、結婚や子育てを通じていのちを伝える人生の基本形から逸脱してしまった人達に勇気をもたらす、則ち気枯れを祓ってくださる神話でもある。離婚して一人で子を育てている人は、それでもいのちを伝える人生を実感できるだろうが、まったくの独身でも、ほかの人がいのちを伝えるのを助けることがそれなりに可能なのだ。
●四〇代後半の筆者も実はまだ独身だ。結婚を望まなかったのでは勿論ない。女性との交際を始める上では、いつも結婚の可能性を意識していた。しかし、失恋どころか、意中の女性と関係を深めていこうとすると、様々な形で互いに遠く離ればなれとならざるを得なくなるケースが続くと、不可抗力のようなものさえ感じられ、さらには、前世からの因果応報ではないかとまで思い詰め、懊悩は深まっていった。
 そんなあるとき、これほど自分に異性運がないのには、何か然るべき意味があるのではないかとの思念がふと浮かんだのである。今まで実家や先祖のことなど顧みずにきたことにもその原因があり、新たな出会いと結婚を求める前に、先祖や家系のことを見つめ直す必要もあるのではないかと想到したのである。結婚できるようになるには、外見や経済力、個人的な魅力をいかに上げるかということばかり重視される現代の常識から外れた発想だが、爾来、家系の研究を始めたのだ。特に筆者の家紋も含む茗荷紋が一筋縄ではいかぬテーマだと気づいてからは、抱き茗荷がご神紋の摩多羅神にいつの間にか取り憑かれていった。
 だがその冥加だろうか、本誌に拙稿連載の運びとなり、葉室賴昭春日大社元宮司の名著『神道 夫婦のきずな』にも出会い、そこに前号から引用しているとおり、独身でもいのちを伝える人生は可能だとの励ましをいただいた。そのことでまた、伊邪那岐命一柱だけの禊祓でも神々がご誕生になった点に、改めて目を開かされることにもなった。
 むろん、伊邪那岐命の禊祓と筆者の研究を同列に置くのではないが、人は神に通じる以上、人生の懊悩極まる時に家系研究の必要性がふと思い浮かんだのは、黄泉國から逃げ還られた伊邪那岐命が禊祓に思い及ばれ、また、一年の陰気が極まる冬至でも陽はまた昇ることを思い出したような感覚だった。
 こうして始まった研究は、平成二三年の師走、東京の穴八幡宮の冬至祭に参拝した翌日、今上天皇陛下御誕生日奉祝のため皇居にお参りしたその日に、本誌編集長の天童竺丸氏から、思いもかけず本稿執筆の引導を渡されたことで大きな転機を迎えることになった。
 それ故、「みょうがの旅」の本論は、冬至に昇る太陽を拝む一陽来復の信仰から始まったのである。しかも、その信仰と深く関わる妙見信仰の聖地であり、また伊邪那岐命の禊祓の霊跡でもある、福岡市西区小戸の小戸妙見神社に触れたが、その増田誠司宮司が神職としての薫陶を、前述の葉室宮司から受けておられたと知ると、すべてが人智を超えた神計らいにも思われる。
 このような神計らいは、意識するしないに関わらず誰にでも及んでいる。何年か前には、一個人が自らの判断でのみ選択し、決断していると思われることでも、実は家系や有縁の神仏諸霊の働きを受けて、なるがままに生かされているのだという実感を抱くに至り、自分の人生の具体的な出来事を見つめ直し、この真理に気づかされることが、神仏祖霊によって筆者が導かれた研究の目的だったのだと結論し、研究を止めようと思った。折しも参列した妙見神社の月次祭で増田宮司そうに語ると、「それは違います。そのことに気づかされたあなたには、責任が発生しているのです」と宮司は即座に言われた。
 爾来「責任」を感じて研究を再開し、それが今は図らずも「みょうがの旅」という形をとるに至る。筆者が各地の社寺で見聞したことや、神話や様々な伝承、書物に触れて思うことなどのうち、たとえ一片の情報でも読者の心の琴線に触れ、それがまた他の人に伝わるならば、人生の基本形から外れた者なりにいのちを伝える「責任」を果たすことになるかもしれない。この天与の形を充実させていくのが、筆者の魂の修行なのだろう。(つづく)