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 みょうがの旅 46 おしほい 40 基本形と異形
        (世界戦略情報「みち」平成26年(2674)3月1日第399号)

●父母不二の宝珠として生まれつつ、男か女の天与の身体に応じて、精神的にも男か女の大人に成長することで、天与の身体の機能を十分に活かすことが可能となり、そしてはじめて異性と結ばれて、自らが夫婦不二の宝珠たる子孫を作る。これが、いのちを伝えていく人生の基本形である。
 しかし、いつの時代にも、生涯独身だったり、子宝に恵まれなかったり、逆に子作りを避けたり、離婚したりと、人生の基本形から外れた人たちもいる。その原因、理由、様相は千差万別だが、それには人智を超えた神計らいもあるかもしれない。そのように見直すと、各自のできる形でほかの人がいのちを伝えるのを助ける人生も可能なのだ。人生の基本形に対して、異形(いぎよう)のいのちの伝え方とも言えよう。
 異形はあくまで少数派だ。独身や子を持たぬ夫婦が主流となると、何が異形かの議論以前に少子化が急速に進み、社会の自滅につながる。前号で、筆者がいかなる経緯で異形の人生を歩んできたか恥を忍びつつ明かしたが、それだからこそ、いのちを伝える基本形を見つめ直そうと、『古事記』や宇賀弁才天信仰を通じて愚考を巡らしてきた。
●現代は医薬分野の学問、技術の進歩により、人間の平均寿命が大幅に延びてきたが、人間がいのちを保ち長らえ、人生という魂の修行=禊祓を全うするのは、医薬ではなく、日々の食に依るのがあくまで基本である。
『大祓詞』(おほはらへのことば)でも「知(し)ろし食(め)せ」や「聞(き)こし食(め)せ」と、「めせ」に「食」の字が充てられることが注目される。
 神々の祭祀では御神饌をお供えし、それを直会で人間もいただくのが基本だ。「医食同源」等外来の言葉を借りなくとも、わが国の信仰は食の決定的な重要性を太古より伝えてきたのだ。
『大祓詞』にはまた、「…天(あめ)の益人等(ますひとら)が過(あやま)ち犯(をか)しけむ種種(くさぐさ)の罪事(つみごと)は…」、ともある。人間は生命体である以上、できるだけ長生きしようとして、気力、体力の消耗を軽減すべく、余計な苦労はしたくない一方で、美味で栄養ある物をより多く頻繁に食べたいと望みがちだ。人生でこのような思いが一瞬たりともよぎらぬ人はほぼ皆無だろう。
 そのような過剰な欲望=罪と、罪が満たされないことで生じる不満や意気消沈=気枯れ=穢は、知らず知らずのうちに募っていく。
 しかし、それもある程度を過ぎると、思わぬ形で身体に病気や怪我として現れる。図らずも負ってしまう怪我も、語源は「ケガレ」にあろう。病気や怪我と一生無縁の人もいないと思う。
 そのときはじめて医薬の出番となる。ただしそれは非常時の助け船である。薬を常時服用していると効かなくなることは素人でも知っている。いのちを伝える糧の基本はあくまで食べ物だ。
 これはまた、食べ物を栽培、獲得する仕事こそ、本来は人間の生業の基本であるべきことを意味する。それに対して、医薬はいのちが伝わるのを非常時に補助する役割を担う。これもまた、異形のいのちの伝え方と言えよう。
 他の職業も農具や漁猟具、また道具類の材料を作って、食べ物の獲得に補助的に貢献し、そのことでもって食べ物を得ながらいのちを伝えてきた。
●かく言う筆者の曾祖父は村医だった。それ故か、祖父の兄弟筋には医薬を生業としている親戚が少なくない。海外在住時代も含めて、筆者が今までに知り合うことになった人たちも、不思議と医薬関係者が目立つ。時々本稿で引用する『神道 夫婦のきずな』(春秋社)の著者、葉室賴昭春日大社元宮司もまた、抑もは医者として活躍しておられた。諸先輩方から交際や結婚を意識して紹介されてきた女性たちも、何らかの形で医薬と有縁の人が次々と続くに及んでは、不気味さを感じて敬遠してきた自分の不甲斐なさを、今更恥じてもいる。何代前の先祖から医薬に携わるようになったのかは不明だが、縁とはかくも不思議なものである。
●薬師の末裔の独身中年という筆者は、こうして二重の意味で異形を意識せざるを得ない人生の故に、農耕を生業の基本とし、陰陽不二の宝珠たる子孫の永続を最も重視してきたわが国の信仰の基本形を見つめ直してきたのである。
「競わず争わず」の文化のわが国では、異形は基本に対立したり、別個に存在するのではない。異形は基本があってこそ論理的にも存在しうる。その基本形を影ながら支え、徒に名利を求めぬ、言わば脇役に徹する人生こそ、異形の者が本来誇るべき生き方ではないか。
 本稿のテーマの茗荷も日陰に生きる植物であり、主菜にもならない。茗荷尽くしの料理を食べた旅人が、出かける際に忘れ物を繰り返す一方、客が財布を忘れるのを狙っていた宿主は、宿賃をもらうのを忘れたという落ちの昔話『茗荷の宿』には、本来主菜となるはずのない茗荷が主役に転じたことで珍奇な事態が出来したことを示すことにより、本末が転倒することを戒める意味も込められている。
 しかし、茗荷は薬味や漬け物としてなら、いのちの糧であるご飯や主菜を引き立てる名脇役にはなりうる。基本と異形が各々の役割を果たすことで、いのちがしっかり、そして味わい豊かに伝わっていく。(つづく)