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 みょうがの旅 47 おしほい 41 黄泉戸喫の現代
        (世界戦略情報「みち」平成26年(2674)3月15日第400号)

●父母不二の宝珠たる人間が男か女の身体を天与の人生の形として得て誕生し、次に自らが新たに夫婦不二の宝珠たる子を生むべく、男女ともその身体に応じて精神的にも大人に成長することで、各々の身体的、社会的役割を十分に果たすことが可能となり、結婚と子作りと子育てにつながる。葉室賴昭春日大社元宮司の言葉を借りれば、いのちを伝えていくことになる。そしてこれが、人生という魂の修行=禊祓の基本形だと認識を改めてきた。
 そのいのちを伝えていく人生を全うするには、自分自身や家族の生命を保つ食べ物が不可欠だ。
 前にも触れた、弘法大師空海が帰朝後最初に開かれた南岳山東長寺(福岡市博多区)の今年最初の不動護摩供に参列した処、毎回挨拶を交わす参拝者二人から、高齢者が老衰で死ぬ時は、徐々に衰弱するのではなく、特に体調が悪くもなかったのに、ある日突然に食べ物を口にしなくなり、以降あっという間に衰弱して死に至る、と各々の身内の出来事を異口同音に語ってくださった。老衰という最も自然な死が、唐突に摂食しなくなることを契機に始まるとは筆者には初耳だったが、この事実もまた、生命を維持し、いのちを伝えていく上での食の根本的な重要性を示していると思う。
『大祓詞(おほはらへのことば)』においても、天孫が豐葦原(とよあしはら)の水穂國(みづほのくに)を治めるべしとの御神勅の中で「知(し)ろし食(め)せ」と表記され、神々に罪穢を祓え給うことを聞き届けていただくにも「聞(き)こし食(め)せ」と「食」の字が用いられる。
●実在の人物も神として祀るわが国では、神仏祖霊に食べ物をお供えし、それを参列者も食べることが祭祀の基本形だが、これは逆を言えば、人は死後も食が必要なことを示している。
『古事記』では、亡き妻を黄泉國まで追って来られた伊邪那岐命に対して、伊邪那美命はそれが最早手遅れなことを悔やまれる。しかもその理由がまた、「吾(あ)は黄泉戸喫(よもつへぐひ)為(し)つ」、と食に関係するものだったことに注目すべきだろう。
 黄泉國の食べ物を食べてしまわれた伊邪那美命の身体には蛆がわき、各部位には八雷神(やくさのいかづちがみ)がいた、ともある。死者が不可逆的に冥界の住人となるのは、仏教では三途の川を渡るか否かによるが、神道では、伊邪那美命の言葉のとおり、黄泉國の食べ物を食べるか否かが決定的なようだ。確かに、黄泉國から蘇られた伊邪那岐命は、黄泉國の食べ物は口にされていない。黄泉國に入ることで自動的、不可逆的に身体が腐乱するならば、伊邪那岐命のお身体にも変化があるはずだが、そうはならなかった。こうしてみると、わが国の信仰がいかに食の根本的な重要性を意識してきたかが改めてよく窺われる。
●『広辞苑』によると、「へぐい」は「竈食い」と書き、「かまどで炊いたものを食べる」意味だが、『古事記』は「戸喫」と書く。「戸(へ)」を調べると、「戸籍」を意味するが、(「竈(へ)」)の転とある。「同じ釜の飯を食う」とは、二人以上の人間が共同生活を送ることで仲間意識が形成されることの譬えなので、これは「竈喫」=「戸喫」の意識が背景にあって生まれた意味深長な言葉だと気づかされる。「黄泉戸喫」=「黄泉竈喫」をされた伊邪那美命は黄泉國の荒神たちの戸籍に入る、則ち鬼籍に入られたことになる。
 黄泉戸喫の内容は何なのかは、伊邪那岐命を追うよもつしこめを夢中にさせた、伊邪那岐命の黒御鬘(くろみかづら)が変じた蒲子(えびかづらのみ)と、湯津津間櫛(ゆつつまぐし)が変じた笋(たかむな)に示唆がある。どちらも人工物から急速に化成するという共通点がある。
 他方、八雷神と黄泉軍(よもついくさ)を逃げ去らしめた桃子(もものみ)は、「桃栗三年柿八年」と言うように、成長と結実に時間を要する。桃は昨年来考察してきたとおり、長大な年月に亘る陰陽交々の営みを経て生成し磨かれていく陰陽不二の宝珠を象徴する食べ物でもある。ならば、黄泉國の住人は手間がかからず、すぐ食べられるものを好むとも言えよう。
 これは、わが国の現代の食生活を禊祓う上で、極めて重大な示唆でもある。五穀や野菜、魚や肉などを入手して、自宅で調理したものを食べる太古からの食生活を厭い、加工食品を購入して調理を簡略化していき、ついには包丁も使わず、包装を解き、熱湯や電子レンジで加熱するだけの即席食品が急増した。前述の黄泉國の荒神が好む食生活=黄泉戸喫に変わってきたのだ。
 その荒神の中に八雷神がいる。雷神は電気の神とも崇敬されるが、電気調理器具と即席食品の普及・多様化が同時並行的に進んだ感を抱くのは筆者の勘違いだろうか?かつて食品業界にいた知人は、電子レンジで調理したものばかりを一年ぐらい食べ続けると人は死んでしまう、と言っていた。手間を惜しみ、便利さばかり追求し、電気で調理した即席食品ばかり食べていると、人は生ける荒神と化すのではないか?
 欲望を科学技術で満足させるのを「進化」や「発展」と喜んで更なる便利を求める一方、些細なことでもすぐ激昂して荒ぶる存在となりつつある現代人。「堪忍袋の緒が切れる」の言葉の「キレる」だけが独立して頻繁に聞かれるようになったのも、黄泉戸喫の食生活の反映だろうか。(つづく)