洞察索引  

                      

 Ⅰ伏見宮と散所商業網 1 「大塔政略」
     (世界戦略情報「みち」平成25年(2673)9月1日第388号)

 わが国史上のみならず人類史上最も注目すべき歴史事象たる明治維新の実相を年来探究してきた私は、昨冬ようやく『明治維新の極秘計画』と題する一書をまとめ公刊することを得た。
 書名の主旨は、明治維新変革の背後に確固たる国家理念から導かれた極秘政策と戦略が存在したとの主張を意味する。すなわち拙著の主旨は、明治維新とは開国を迫られた幕閣が場当たり主義で行なった諸対策の累積の結果生じた偶然の歴史事象ではなく、その根底に皇室勢力が深謀遠慮によって立案した極秘計画のあったことを明らかにすることである。
 私が「堀川政略」と呼ぶその計画の骨子は、「崩御を装った孝明天皇と皇太子睦仁親王が、京都堀川通り六条の本圀寺内に秘密造営された堀川御所に隠れ、長州藩奇兵隊士大室寅之祐が睦仁親王と交替して明治天皇となった」ということである。これに付随する戦略系が幾つかあり、将軍家茂は大坂城での薨去を装って関西の寺院に隠れたこと、幕府の陸軍奉行小栗忠順が東山道鎮撫総督の随行原保三郎に斬殺されたと装い、利根川の舟運を利用して江戸湾に下り、沖に停泊していた米国船で米国に亡命したことなど、である。
 ところが公刊して旬日も経たない時、拙著を読んだ国文学者某教授から明大教授徳田武『朝彦親王伝』という書を紹介され一読したところ、これが引用する『寧府紀事』の記事の中に驚くべき記載があった。弘化三年(一八四六)の頃の奈良奉行川路聖謨に対し、後に久邇宮朝彦親王となる興福寺一乗院の門主が「わが実家伏見宮家は後醍醐天皇の子孫で、南朝である」と力説する場面を見付けたのである。それも一、二ヶ所ではない。何度確かめても『寧府紀事』の趣旨は右の通りである。
 万一これが史実ならば、私だけでなく日本の全国民がこれまで教わってきた日本史の、少なくとも南北朝以後の皇室史は根本的に虚偽だったことになる。天皇を中心に国家を成しているわが國體に鑑みるとき、天皇に関する史実を取り違えているのならば、少なくとも一四世紀以後今日まで七世紀に亘る日本史は、全くの空虚且つ無意味なものとなろう。
 皇統に関する南北疑惑の存在を知った以上、何を措いても伏見宮の史実を確かめて真相を明らかにしなければならないと痛感した私が、思案の果てに頼ったのは本誌にも関係の深い人物であった。ただ、本誌では故あって身分が明かされなかったが、実は高松宮に親しくお仕えしていた舎人である。宮殿下の薨去を以ていったん致仕するも、余生の場となった「其の筋」の下で、他言なぞ許さるべくもない奉公の甲斐あって、太古より皇室に伝わる秘事を学ぶ機会を与えられたという。
 早速、「其の筋」に当ってもたらしてくれた情報を整理した後に判明したことは、建武元年(一三三四)に南北両皇統の首脳が驚くべき内容の合意を極秘裡に交わしていたことである。
 前年元弘三年六月に新政を開始した後醍醐天皇はすぐに新政の無理を覚り、再び大政を武家政権に委任することを決めた。同時に、鎌倉末期以来南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)に別れて収拾がつかなくなっていた皇統を一本化することで、持明院統の合意を得た。その骨子は、将来にわたり皇統を後醍醐の皇子大塔宮護良親王の子孫に一本化することにあった。
 南北両統の合意はこれだけではなかった。大政を足利尊氏に委任する方針の後醍醐天皇は、その手段として護良親王と楠木正成を足利尊氏の政敵に仕立てあげた。そのために、建武元年一月には寵姫阿野廉子の生んだ恒良親王を皇太子にしたうえ、廉子の嫉視を買った形で護良親王に偽装謀反の罪を着せて鎌倉に送り、足利直義の保護下に置いた。
 一方、南北朝統合の第一歩として、建武元年四月二二日に生まれた大塔宮の王子益仁親王を北朝光厳上皇の第一皇子として入籍し、この王子を将来「北朝の天皇」として皇位に就けることにより、南北朝の秘密統合を謀ったのである。これらの秘密計画は大塔宮護良親王を中心に据えたものであるから、総称して「大塔政略」と呼ぶことにする。
「大塔政略」に同心していた足利直義は腹心淵辺義博に命じ、大塔宮の落ち延び先を予め房州白浜に設けさせた一方、後醍醐天皇は南朝方に就いた北条遺臣諏訪頼重に命じ、建武二年七月に北条時行を奉じて鎌倉に攻め入らせた。この「中先代の乱」による鎌倉の混乱に乗じ淵辺義博が護良親王を弑逆する場面は古来甚だ有名だが、これを偽装と断じたのは中丸裕昌(すけまさ)『南北朝異聞』(平成一〇年)が初めてである。
 淵辺義博が率いる六人の郎党に護られて無事南安房に落ちた親王は、以後白浜で機を窺っていたが、やがて鎌倉極楽寺に入り、極楽寺のネットワークを辿って大和国に至る。南都入りした親王は、予定にしたがって真言律宗の本拠西大寺に入り、以後「散所の民」の頭領となり散所経済の中枢に座ったのである。
 一方、武家政権への大政再委任を後醍醐に奏上した楠木正成はこれを容れられぬ形を取り、建武三年五月に九州から攻め上る足利尊氏の六万の大軍を七〇〇の寡兵で引き受けたのは、華々しく討ち死にすることで尊氏に大勝利を与え、幕府開基のきっかけとしたのである。
 建武三年八月一五日、比叡山に逃れた後醍醐を武力で退位に追い込んだ形の足利尊氏は同日光厳上皇の弟を擁立して光明天皇とし、一一月に建武式目を発令したが、暦応元年(一三三八)には光明天皇により征夷大将軍に任じられて室町幕府を開いた。
 光明天皇は正平三年(一三四八)、光厳第一皇子の益仁(改め興仁)親王を皇太子にした直後に退位するが、崇光天皇になった興仁は、三年後の正平六年に尊氏が南朝に一時的に屈した「正平の一統」で南朝側によって廃位される。その後は、勢いを盛り返した北朝が光厳の第二皇子彌仁親王を擁立して後光厳天皇とするが、ここまでの過程は、建武元年以前に後醍醐天皇と醍醐寺文観が建てた「大塔政略」の流れに沿うものだったのである。
 崇光天皇すなわち光厳第一皇子興仁は実は護良の王子であるから、自分こそ光厳第一皇子との意識が強かった後光厳は崇光上皇が望むその子栄仁親王への譲位を拒絶してわが子緒仁親王を後円融天皇とし、その後は後小松天皇から称光天皇と、後光厳が父子四代に亘って皇位を続ける。これを「新北朝」と呼ぶのは、長幼の序からすれば崇光→栄仁が嫡流なるがゆえで、蓋し至当というべきであろう。
 北朝の嫡統にも関わらず、足利氏と組んだ弟の後光厳により子孫が皇位から排除された崇光を失意の天皇と観るのが従来の通説であるが、崇光が実は護良の王子であることを知れば、これは芝居だったのである。
 崇光の子孫が二代に亘り敢えて皇位に就かなかったのは、後光厳の子孫が新北朝を続けている間を利用し永久的皇位継承権を有する「永世親王家伏見殿」を確立し、そのために伏見桃山領五千石を確保していたからである。つまり、当座はさておき将来は護良親王の子孫以外に皇位継承権を認めないことを定めた「大塔政略」の実現に向けて伏見殿は、当面の皇位を顧みず万世一系天皇の血統バンク制度を固めるのに腐心していたわけである。
 後醍醐天皇の退位と南朝の始まりを、湊川敗戦の建武三年(一三三六)とするか、後醍醐崩御の暦応二年(一三三九)と観るかはともかく、爾来五〇年に亘る南北両朝の並立に終止符を打ったのが明徳三年(一三九二)の「明徳の和約」である。通説では、楠木正勝の籠る千早城が落ちた南朝方が戦意を喪失したためとされるこの和約は、実は「大塔政略」を進めるために行なわれたから、合意に北朝朝廷を関与させず、将軍義満と南朝及び西大寺筋だけで行なわれた。前年に行方を晦ました楠木正儀と、八五歳の護良親王が深く関与していたのである。
 和約は主として形式で、実質は吉野から入京した後亀山天皇が、大覚寺で後小松天皇側に「三種の神器」を引き渡すのと引き換えに、太上天皇の称号を受けたことである。かつて両統の紛争の基になった荘園群の領有権については、長講堂領が従来通り持明院統に属するとされたに過ぎず、旧大覚寺領で打ち続く戦乱の間に武家に奪われた八条院領の回復は、議論にもならなかった。和約では各地の国衙領が大覚寺領とされたが、所領としては有名無実であった。
 皇位継承については迭立との約束が一応なされたが、「大塔政略」の下では無意味で結ぶ必要もなかったが、「大塔政略」を知らない世間と南朝勢力の下層を納得させるために、表向き取り決めたのである。和約の過程を知らされない新北朝は激しく抵抗したが、「大塔政略」上で一時凌ぎの役割を担っただけで、本来重きを置かれていなかった。つまり明徳の和約とは、実質伏見殿の護良親王と足利義満によって結ばれた「大塔政略」の総仕上げと観るべきである。
 伏見殿は表向きでは崇光の第一皇子栄仁親王を初代とし、二代目を継いだ治仁王が応永二四年(一四一七)に薨去したので、弟の貞成親王(一三七二~一四五六)が三代目を継ぐ。折から新北朝は後小松天皇(一三七七~一四三三)で貞成より五歳下だった。後小松は応永二八年に称光天皇(一四〇一~二八)に譲位するが称光天皇に継嗣なく、貞成の第一王子彦仁を後小松の猶子として後花園天皇とし、これに伴って同第二王子貞常が伏見殿を継いだ。
 かくして、護良親王の孫の栄仁から始まる伏見宮家は当初から紛れもない南朝で、しかもその後も連綿として絶えなかったのであるから、まさに朝彦が川路聖謨に語った通りなのである。
 これで真相を洞察した私はこの秘史を一刻も早く世に知らしめんものと、『南北朝こそ日本の機密』を日に夜を継いで書き上げ、伏見殿の実像を明らかにした。
伏見殿の役割は啻(ただ)に皇室の万世一系の血統バンクに留まらない。実質的に初代伏見殿となった護良親王は西大寺に入って散所民のカシラになり、貨幣経済に乗じて商業・流通および手工業の分野で巨大な利益を挙げつつ、これを用いて行商の拠点たる各地極楽寺を結ぶ商業ネットワークを整備し、さらに集積した西大寺のファンドを全国の港湾整備に向けて、廻船・海運網をも開拓するのである。  (つづく)