洞察索引  

                      

 Ⅰ伏見宮と散所商業網 2 建武合意の最重要点
         (世界戦略情報「みち」平成25年(2673)9月15日第389号)

●持明院統と大覚寺統の首脳が建武元年(一三三四)に完全に合意した事柄は、「両統の十年ごとの迭立の約束の愚昧を一掃して、皇統を一本化すること」であった。
「両統迭立の約束」とは、持明院統から大覚寺統への皇位交替要求の支援を要請された鎌倉幕府が、これを奇貨として皇位継承問題に介入した際、当面の弥縫策として提案したものである。内容は、両統が十年交互で皇位に即く事を約束し且つ実行することで、いわゆるたすき掛け人事である。
 これが愚策の極みたる所以は、当時の皇室慣行として天皇が幼少で即位して早期に退位するため、上皇すなわち天皇経験者が何人もおられたが、そのうちのただ一人が「治天の君」と称して朝政を独裁する、いわゆる「院政」が慣習法による制度として確立していたからである。
 これを要するに「院政」の下では、少年天皇の本質は国民のために国家社会の安寧を祈る国家シャーマンであって、大凡十年に亘るその時期を過ぎると退位して上皇となる。この院政が「両統の十年迭立」と合わさると、とんでもない事態が生じたのである。
 それを一言で謂えば、第一に、迭立は「相手側が登板している十年間、当方はお休みします」ということを意味するから、両統ともに、生まれ年の巡りあわせにより、登板年次とお休み年次が生じる。それがタスキ掛け人事である。なぜそうなるのか。
 大企業同士が対等合併によりメガ企業になった例が、かつての八幡製鉄と富士鉄による新日鉄、および勧銀と第一銀行の第一勧銀であるが、その渦中にいた人はタスキ掛け人事がもたらした不合理・悲喜劇をよく御存じと思う。近来は平成の大合併で、わが曾遊の会社たる住友某社も系列を挙げて新日鉄系と合併した。むろん対等ではないから、合併後の社内では、いわゆる南北朝構想に似た権力闘争が行なわれているであろう。
 第二には、新上皇が気力充実の十年間を朝政から離れていなければならないことである。下記に概略を説明するが、拙著『南北朝こそ日本の機密』に、そのシミュレーションを掲げておいたから、詳細はそれに拠られたい。
 まず「両統の十年迭立」を年齢モデルで説明しよう。ここで持明院統を世代順にA・B・Cで表し、大覚寺統を同じくⅩ・Y・Zで表すことにし、恐れ多いことではあるが敬語を省略させていただく。
 生後数年で立太子した「Bの宮」は七、八歳で即位して、今なら小・中学生の時期を天皇Bとして過ごし、ハタチ前に退位して上皇Bとなる。この時、十年前に退位した先代天皇Yは、上皇にはなったが、まったく政治力のない立場で、この十年間を風流・仏事に明け暮れていた。
 Bの天皇退位に伴い、それまで「治天の君」だった上皇Cが退任し、交替に、それまで「平上皇」だったYが新しい「治天の君」に就く。これまで「治天の君」だった上皇Cは必ず天皇Bの実父ないし父権者であるが、その理由は「治天の君」の権威・権力が、その一統が保有する表面的勢力によるものではなく、天皇Bを絶対的な基礎としているからである。したがって、天皇Bが退位した以上、上皇Cはそれまで「治天の君」として揮ってきたあらゆる権力を一瞬に捨てて、有無をいわず「平の上皇」にならなければならない。これこそわが國體なのである。
 因みに、世に社会科学者を称する者が「天皇制」なる用語を用いる例を往々見受けるが、彼らが國體を理解したことを寡聞にして知らない。権力史観・物質史観だけでは理解しえないのが國體観念であるから、マルキシズムの走狗となった社会科学者にその理解を求めるのはムリで、樹によりて魚を求むるの類であろう。
 さて、天皇Bが退位し「平上皇B」となると同時に、入れ替わって新天皇になる皇太子Ⅹは、本来上皇Yの実子もしくは猶子であるが、迭立の要件を満たすために、反対統の天皇Bの皇太子となっていたのである。「迭立」である以上、両統の接合点たる立太子において異統同士を接合することとなり、ここに接合不全が生じるのである。
要するに新天皇Ⅹは自分の皇太子として、必ず先帝Bの子であるAを立てねばならないのである。こうして、あらゆる天皇は異統から皇太子を迎えるのが必要条件となるから、皇室・皇族としての家族的雰囲気が破壊されることは避けられない。
 また、両統ともに十年ごとに皇太子を出すわけだから、オモテ年とウラ年ができてしまうが、相続の基準を長子に置くか、選択するか、母系を重んじるか、何れを採ってもそれなりの問題があるから、それはやむを得ない。問題は権力を伴う「治天の君」である。
 凡そ皇太子として選ばれた以上、シャーマン天皇を経て、やがては「治天の君」となって朝政の万機を総攬することを望むものであろう。ところが、先程の例でいえば、Bが天皇をアガッて上皇になった瞬間に、天皇時代に庇護してくれていた治天Cが平上皇になり、交替して新しい治天に就いたのは反対党のYである。
 個人的関係を無視し統別による対立感情の存在を仮定すれば、Bは反対統の治天と天皇に挟まれた平上皇として、すこぶる跼蹐せざるを得ず、しかもその状態が十年続くのである。程なく成年に達するBは、二十歳過ぎの男盛りを花鳥風月を眺めて暮らし、あるいは抹香の中で仏事に勤しむのである。
 迭立の弊害は挙げればキリがない。そこで両統が皇室固有の問題として、いかなる形にせよ利害に捉われず、皇統の一本化を望んだのは当然で、異論は全くなかった筈である。
 次は、具体的にどちらの皇統に一本化するかという問題になるが、答えはすでに出ていた。すなわち、後醍醐天皇の皇子護良親王を新しい皇統の開祖とすることに両統ともに異存がなかったのである。これを見ても、両統が皇位継承を争ったのは私益のみによるものではないと思われる。
 ところが、ここからが問題で、護良の子孫を唯一の皇統として残すという決定を、天下に公表しないこととしたのである。この背景を解き明かすのは容易ではない。
 概していえば、両統の合意事項が皇統一本化だけではなく、外にも重要な点があり、相互に関係していたから、皇統一本化だけを表面化することができなかったのである。それがいかなる内容であったかは、簡略ながら前号に並べて置いたので、参照されたい。
 読者には「両統合意によるものならば天下に公表すべきものではないか」との見方もあろう。それも尤もとは思うが、ともかく「建武の合意」の内容は〈おそらく完全に〉実行されたが、合意そのものは極秘とされ今に至った。正確には、六八八年後の平成二五年一二月に「さる筋」を通して「その筋」から私に伝えられたのである。
●皇統の一本化とならぶ「建武の秘密合意」の最重要点は、護良親王が俗界の皇位に即かず、西大寺に入って散所民のカシラとなったことであるが、これはウラ天皇になったことをも意味するのである。西大寺を本山とする西大寺流律宗は、後に真言律宗と呼ばれるが、特徴は一言で言えば「非人救済」であった。
 ここで非人とは、史学者からは「散所民」と呼ばれる中世非人のことであり、大まかに言えば「無籍の非農業民」のことであるが、注目すべきことは、非人概念には主たる要素として乞食を含み、また乞食概念が、特に区別せずに癩者を含んでいる点である。
 癩病について、自分の近来の知見を述べたい。まず定義であるが、かつて癩病と呼ばれていた病気をハンセン病と呼ぶのが現代のしきたりであるが、常識でみても、癩病の方がハンセン病以外の広い範囲にわたるようである。
 癩病はノルウェーの医師ハンセンが一八七三年に癩菌を発見したことで今日ではハンセン病と呼ばれる。近年の統計で、ハンセン病の新規患者数は日本人はごく稀でゼロに近いが、世界全体ではなお年間約二五万人が発生している。患者の新規発生数が多いのはインドとブラジルである。癩菌はマイコバクテリウム属の真性細菌で、結核菌と同じ抗酸菌であるが、ハンセン病は癩菌が皮膚のマクロファージ内寄生および末梢神経細胞内寄生によって引き起こされる感染病である。
 マクロファージとは白血球の一種で、生体内をアメーバ状に遊走する食細胞として、死んだ細胞や体内に生じた変性物質、侵入細菌などの異物を捕食し消化する清掃屋で、免疫系の一部を担うことで免疫機能の中心的役割を担っている。
 古代の文学・伝承にでてくる癩病は、重度の皮膚疾患や失明・断指などの外形的症状を総称したもので、その主たるものが癩菌によるハンセン病であったことは否めないが、それに止まらないと看なければなるまい。ことに、近世に梅毒が渡来すると、外見的症状が癩病に類似していることから、これを癩病と同一視することもあった。
 ハンセン病の感染は癩菌の経鼻的もしくは経気道的による感染経路が主流であるが、伝染力は非常に低いとされている。癩菌を保菌し感染するのは霊長類とアルマジロだけである。これは癩菌が高温に弱く、アルマジロの体温が哺乳動物としては極めて低いためで、逆に言うと低体温の人は、癩菌に感染し易いことになる。
 ハンセン病を考えるとき、感染と発病を明確に分けて考えなくてはならないのは、ハンセン病が極めて感染力が弱く、幼少時を除いてヒト同士の感染はないとされているからである。つまり保菌者であっても必ず発病するとは限らず、逆に発病しなくても幼時に感染している場合が少なくないわけである。また発病には、濃密接触は別として免疫力低下などの条件があり、その一つが低体温や栄養失調ということである。
 生きておれば今年一〇三歳の亡父は、大正時代には高野山参詣道にハンセン病者が奄々と並んで座していたと語っていた。九六歳の叔母は、昭和初期には紀三井寺に千日詣に行くと、石段に多数のハンセン病者が座っていて報謝を待っていた、という。
 それほどの発病者がいたのなら、総人口中の保菌者比率はかなり高かったのではないか。その時代からまだ八〇年しか経っていないのである。(つづく)