洞察索引  

                      

 Ⅰ伏見宮と散所商業網 4 非人社会の核となったハンセン病
       (世界戦略情報「みち」平成25年(2673)11月1日第392号)

●もうずいぶん前だが、高野山大学の卒業生から、「弘法大師空海がハンセン病患者であった」と聞いた時には感じることがなかったが、近来癩病について調査していて、これを思い出した。
空海が自ら高野山の奥ノ院の一宇に隠れた理由を、ハンセン病の病状が悪化したからと看るのが最も筋が通るであろう。つまり、空海はいきなり禅定したわけではなく、当初は隠遁しただけで、維那という侍僧以外の誰にも会わなくなったのである。奥ノ院の霊廟では、空海は今も禅定を続けているとされ、維那が日に二度の食事を給仕し、衣服をあらためていると聞くが、自然界の常識にしたがえば、すでに禅定して久しいことは論を俟たない。
 近来、京都皇統の舎人から教わったのは、「空海が入唐して長安の青龍寺に恵果和尚を尋ねたのは、予て青龍寺側から要請されていた水銀を届けるのが第一の目的」、とのことである。空海の来訪に接した恵果が開口一番、「汝を待つこと久し」と言ったのは、水銀を待ちかねていたのである。今回、真言宗関係者の教示により恵果和尚もまたハンセン病者であったと知り、初めてこの言葉の意味を理解した。
 ハンセン病の歴史は古いが、真の原因が分からず、したがって根本療法も治療法も発見されなかったから、患者の一般社会からの隔離と血統からの排除の他に、社会の安全に与る為政者としても決定的な方法を見付けることができなかったのである。しかしながら、その感染が成人間では滅多にないことを経験的に知っていた人々がいた。西欧社会では移動民族のロマであったが、日本でも、漂泊の生活に慣れた非農業民がそれで、仏教伝来後の社会がこれを「非人」と呼んだのは、律令国家において、無戸籍のために公地公民制の枠外に置かれ、納税・兵役などの公民義務を事実的に免れていたが故の命名である
 社会が律令国家から荘園制に移行しても、その階層すなわち荘園外の非農業民は、存在が解消しないどころか商品経済の勃興に伴い増えるばかりであったが、彼らに対しても、同様な発想から「非人」と呼んだ。つまり、近世社会における非人身分とは全く異なる概念である事を理解しなければならないが、ともかくこの階層を「中世非人」と呼ぶのが近来の慣わしである。
 右の「中世非人」の社会的な概念はまず非農業民であるが、確たる職能を有して生活の本拠が定まった者、すなわち宗教者・職人・技術者・学者・医薬従業者と定まった本拠のある商人などは、非人とは言われない。非定住の非農業者と言う概念から右の人々を除けば、残りは概ね非人である。
 すなわち非人概念は積極的に定義されるものではなく、良民を限定的に列挙した時に残った「その他の雑民」であって、本来厳密な定義に服する者ではない。
●ところが中世非人の中に、例外的に明確に定義されるものもあり、その一は乞食で、時に芸能民を兼ねる。抑々仏教では喜捨が宗教的な義務であり、善男善女(仏教徒)は常に積極的に之を行なわねばならないが、そのためには喜捨を受けてくれる相手の存在が必要である。すなわち、仏教社会は根本的に喜捨を受ける者を必要としていて、宗教的行為としての托鉢が存在する所以であるが、社会的必要がある以上、これを専らとする職業が成立するのは見やすい道理で、これが職業物貰い、すなわち乞食なのである。したがって、近世以前の社会で「乞食」とは、社会的な階層ではなく職人の一種として「職人歌合せ」にも登場しているのであるが、その乞食が時として簡単な芸能を披露したのも、職人芸の一つとして行なったものであろう。
 右のように乞食を職業的中世非人とすれば、病状的中世非人がハンセン病者であった。すなわち、ひとたびハンセン病を発症すれば、よほどの例外でない限り、家族からは勿論、一般社会からも隔離されて特定の環境に置かれたが、その場所の居住者は、明確に「非人」と呼ばれたから、ハンセン病者は原則として中世非人なのである。
 それでは、黒田官兵衛はどうか、山本勘介はいかに、との質問が出て当然である。言い忘れたが、荒木村重に降伏を勧告に行った黒田官兵衛は有岡城の北側の湿気溢れる土牢に監禁され、一年余り後に救出された時には罹病していた。そのことは、世に伝えられる症状を具に見れば明らかである。武田信玄に軍師として仕えた諏訪の山本勘助についても同断である。戦国大名では大谷刑部が冷静沈着の参謀型部将として最も有名だが、黒田如水と山本勘助も之に劣らない。
 この例が示すように、低体温の体質を有する者はライ菌に対する免疫性が低く、感染しやすいのであるが、半面沈着冷静で判断力に優れ、参謀たる素質を最も具有するのである。之によって是を見れば、日本史上最大の天才として万人が認める空海とその師の西域僧恵果がハンセン病患者であったとしても怪しむに足りない。
●ついでにいえば、数日前に届いた『月刊日本』に、根来寺の開山で新義真言宗の開祖たる覚鑁もハンセン病者だったフシを発見した。それは、佐藤優氏の「太平記を読み解く」と題する連載の六三回である。之を要約すれば、虚空蔵求聞持法を七回ないし九回も行なったと言われる覚鑁は正に超の付く高僧である。
 その高僧ですら慢心が生じる例が、佐藤氏が挙げる『太平記』の下記の一節である。

 ここに我慢邪漫の大天狗ども、如何がしてこの人の心中に依託して、不退の行学妨げんとしけれども、上人の定力堅固なりければ、隙を伺うことを得ず。されどもある時上人温室に入って、瘡をたでられけるが、心身快くしてわずかの楽しみに淫着す。天狗ども、この時力を得て、造作魔の心をぞ付けたりける。

 ハンセン病者だったフシとは、上の下線の部分である。温室とはおそらく現在のサウナで、床下に石を置いて加熱し、水を注いで六〇度くらいまで熱した水蒸気を簀子の下から立ち上らせて、これを浴びるから、熱にことに弱い表層のライ菌は確実に死に、多菌型の患者が「心身快く」なるのも当然であろう。三九度以上になると熱すぎる熱湯浴と異なり、蒸気浴では六〇度でも耐えられるが、この温度では多くの感染菌もウイルスも死滅するから、感染病の予防には最適であろう。
 蒸気浴を俗にトルコ風呂(例の風俗産業のことではない)と呼ぶのは、西域方面から長安を通り、朝鮮半島から渡来したからである。この蒸気浴施設が釜風呂などの名称で各地に散在・残存しているが、もともとは浴堂とか湯屋と称して大寺院に必置の施設だったのである。ハンセン病者が多かった韓国では、薬草を敷き詰めた蒸気浴が今も盛んであるが、これは本来ハンセン病の治療施設であるが、高熱のため感染予防を兼ねたものと聞く。
 患者にとっても良く、予防にもなるので、中世日本でも大寺院に設けられたのは合理的発想であるが、江戸時代に入り、風呂が熱湯浴の湯屋に取って代わられた理由は、何だったのか。あるいは、成人間では感染が滅多にないという経験的知識が社会に侵透してきたためか、社会全体の公衆衛生水準の向上と隔離政策が効いて市中から患者が姿を消したからか、未詳である。
●中世非人とハンセン病の関わりは水銀薬である。漢方生薬の「軽粉」は塩化第一水銀すなわち甘汞(かんこう)で伊勢白粉(いせおしろい)として知られ、梅毒の駆梅薬としても一時は盛んに用いられた。ハンセン病に効くとして各地で用いられた大風子油(だいふうしゆ)は、イイギリ科に属する何種類かの植物の種子の大風子を、種皮を除いて圧搾して得た脂肪油で、これに含まれる不飽和脂肪酸の成分がライ菌の成長阻害作用を生じるのである。
 物の本に拠れば、大風子油が日本に伝来したのは、ずっと遅く江戸末期とされるが、麻薬の歴史を見ても通説は大きく見誤っており、にわかには信じ難いから、以下では大風子油ないしこれに類似の生薬が日本に古来存在していたと考え、これを大風子油と看做すことにする。
 ともかく、軽粉と大風子油を合わせた水銀膏薬が、大寺院近傍の別所に屯した私度僧ヒジリたちによって作られ、極楽寺のネットワークを拠点とした行商人が之を頒布して、全国各地を回ったのである。行商人もむろん中世非人であった。
 ハンセン病の治療として当時はこの種の水銀膏薬と高温蒸気浴しかなかったのである。しかしながら、ハンセン病の感染性が成人間において極めて低いことを知る中世非人は、積極的に病者の身柄を引き取り、その介護を引き受けた。むろん有償行為であるから、今日の医業・薬業と等しく、非人にとっては経済的効率の良い生業(なりわい)の一つとなったのである。
 かくてハンセン病については、介護側が社会的非人で、介護される側が身体症状的非人であるが、身体症状的非人の多くは善男善女から喜捨を受ける対象としての職業的非人となったから、ここにハンセン病を核として非人社会の一つの形が出来上がったのである。 今日ならば、地方行政が行なうべき公共サービス事業、すなわち公衆衛生・市内清掃・犯罪者逮捕・治安維持などの現場作業のほとんどすべてを担当したのが非人社会なのである。この他に芸能非人がいたが、ここでは深く追究しない。
 さて、先述したように高僧たちの中にハンセン病に罹患する者が目立つのは、高IQ者に特有の低体温的体質に加え、求聞持法を勤行するなどの荒行が低栄養により免疫力を弱め、当時の自然に充満していたライ菌が接近しやすい状況に進んで身を置いたからではなかったか。自然環境としては、ライ菌そのものが自然に多く分布する地域問題と、食習慣や自然水質などの地域固有の栄養障害により免疫力が低い地域問題とがある。
 さて、明治初期の日本では三二〇〇万の総人口に対してハンセン病患者が三万人を超えていた。すなわち、人口千人に一人近くの割合で発病者がいたのである。だが、感染力が極めて低いうえに、潜伏期間が数年から数十年と非常に長く、感染しても大多数は一生発病しない。外見ではハンセン病と分からない。換言すれば発病率がゼロに近いとされるハンセン病の患者がこれだけいたのである。  (つづく)