洞察索引  

                      

 Ⅰ伏見宮と散所商業網 5 極楽寺商業網が貨幣経済を促す
               (世界戦略情報「みち」平成25年(2673)11月15日第393号)

●ハンセン病は、人類社会と自然界に存在するライ菌がヒトに感染して発病するものであるが、ヒトからヒトへの感染は、成人同士の場合は非常に低いとされているのは、適温が三一度と体温より低いライ菌の方から好んで人間に寄りつくことはないからである。
 いったん感染したとしても発病率が低いという。明治初年の調査で、全国にハンセン病患者が三万人いたというから、人口比で千分の一である。感染者の発病率がどの程度なのかデータがないが、非常に低いというから、仮に発病者の対感染者比率が一〇分の一ということならば、感染者および保菌者の総人口比は百分の一になる道理である。つまり、感染者の段階に遡れば、全国に三〇万人のライ保菌者がいたことになる。
 未発病者の外観は常人そのものであり、周囲の環境もライ菌の存在を思わせるものがないので、本人は固より、周囲もライ感染者の存在に気づくはずがない。それでも過去の社会では、統計的に一〇〇〇人のうち一人が死ぬまでにハンセン病を発病するのである。
 つまりハンセン病の発病は、何もないところに突然生じる、降って湧いたような不可思議な災難であった。したがって中世社会では、ハンセン病の原因を医学的ないし科学的に求めるより、宗教的に解そうとし、仏教では法華経の普賢菩薩品第二十八で「法華経を謗った者が受けた仏罰」と論じたが、キリスト教でも「悪魔の呪いに因る病」と教えたので、罹病者は単なる病人としてではなく、宗教上の犯罪者として扱われることとなった。
 結核や梅毒ですら表立った社会問題にしなかった時代に、重大な社会問題になった病気は、感染率と死亡率が極めて高い天然痘と幼児が罹る疫痢で、さらには幕末日本で流行したコロリ(コレラ)くらいであった。
 そうした中で、ハンセン病だけは、その発症が仏罰もしくは神罰の顕現であると看做され、こうした宗教的論理から発症者をア・プリオリに「非人」として扱う不文法が適用された。横井清『中世民衆の生活文化』(東京大学出版会)によると、「ハンセン病患者と家族が相談し、患者は相当の金品を添えて非人宿に引き渡されて非人長吏の統率下に置かれた」と鎌倉時代の文献にあるという。
●一方、ハンセン病の治療・介護に相当の熱意を注いだのが皇室であった。すなわち、推古元年(五九三)に仏教思想の慈悲を実現するために四天王寺を建てた厩戸皇子(聖徳太子)は、隋制に倣って寺内に四箇院を設け施薬院・悲田院・敬田院・療病院を置いた。皇子は四箇院に関しとくに救癩(ハンセン病者の救済)を標榜していないが、実情とその後の進展を見れば、焦点が救癩にあるのは明らかである。
 一三〇年後の養老七年(七二三)、立后前の光明皇后が興福寺に施薬院と悲田院を設置したことが『扶桑略記』にある。興福寺の施薬院と悲田院はその後も官営施設として続いたのは、律令制度においても救癩を公共事業とみたからであるが、平安時代に入ると、皇室の式微というより摂家と大社寺の専横の結果、見方を変えれば律令国家から荘園社会への移行の結果、救癩事業は宗教界に遷される一方、興福寺の施薬院と悲田院は、藤原氏の寄進によって一族専用の私立病院とされたのである。
 仏罰を受けた者とされたハンセン病者であったが、逆に文殊菩薩の化身であるとの伝説が生まれたのはいつの頃からか、平安初期に勤操や泰善らが文殊菩薩の法要と貧者や病者のための施しを行なう「文殊會」を始めた。
 最初は民間催事だったが朝廷の援助を得るようになり、八二八年七月、太政官符によって文殊會を行なうようになった。朝廷が設けた文殊會費用のための特定財源から拠出して、毎年七月八日に東寺・西寺を中心に盛んに行なわれた文殊會では、貧者病者に対する布施を目的としたが、当然ハンセン病者が重要な対象であった。日本福祉史において重要な一駒をなす文殊會も律令国家の没落とともに衰退し、やがて行なわれなくなった。
 それを鎌倉時代に復興したのが西大寺律宗の叡尊・忍性で、深く文殊菩薩に帰依した忍性は、一二四〇年以後、各地で文殊供養と大規模な非人布施を行ない、各地に建てた極楽寺を「中世非人」の拠点とした。忍性の事業は非人救済を重要な柱としたが、ここで「非人」とは、大都市の内部ないし近郊に自然発生した地域に混住する、

①社会内の生存競争で脱落した経済的貧者の境遇非人
②ハンセン病を発病した身体非人
③古来朝鮮半島から密航したために社会基盤を欠く難民

などで、その地域は「非人宿」と呼ばれたから、逆に言えば非人宿の住人のことである。
●前述したように、非人宿でハンセン病者の有償介護を産業として行なっていたのは、ハンセン病の原因を感染菌とする医学知識は一九世紀までなかったものの、この病気が成人間では滅多に感染しないことを経験的に知っていたからである。欧州でも、ロマ族(ジプシー)はこれを知っていて、ハンセン病者を有償で引き取って介護するのが生業の一つであった。
 プロミン以後、ライ菌に対する特効薬が発見された現在は治療法が確立されたが、往時の治療法は水銀と大風子油と温浴に尽きた。大風子はイイギリ科の植物で、これから抽出する精油がライ菌の増殖を抑制する。また水銀は、ライ菌の付着により外観が異常変形した古い皮膚を、化学作用で剥落させて細胞を再生させる作用があるうえ、何より殺菌力が強力であるから、患部に巣食うライ菌を減少させ、増殖を抑制するのである。
 因みに「大風」とはハンセン病のことであるから、「大風子」とはズバリ、ライ菌抑制を指した呼称である。いつ頃から用いられたのかは、浅学にして未詳である、鎌倉時代に既に用いられた確証はないが、漢方の歴史は浅いものではなく、これほどの健康問題を漢方薬学者が放置した筈もないから、おそらく大風子油または同等の生薬が、すでに用いられていたものと思われる。
 そこで本稿では、これをも含めて広義に「大風子油」と呼ぶことにするが、これに軽粉すなわち伊勢白粉を混ぜて練り合わせた膏薬こそ、この難病に対する当時唯一の特効薬であった。この膏薬の製造に主として携わったのは、大寺院の支配下で別所と呼ばれた地区に集住する「ヒジリ」と呼ばれた私度僧であった。ヒジリは仏教界に身を置く中世非人の一種である。
 別所のヒジリたちが製薬した水銀膏薬を全国の非人宿ないしハンセン病者を抱える家庭に販売したのは、中世非人の重要な一角を占めていた「道々の輩」すなわち「行商人」であった。おそらく各地の極楽寺が、行商人たちの休息所と同時に、その配置所を兼ねていたものと思われる。
 輸入宋銭が蓄積されていなかった鎌倉前期はまだ物々交換の時代であったが、行商経済には全く不向きの物々交換は変化を迫られることとなり、流通方式として行商が勃興すると、社会の貨幣需要が急激に高まり、又貨幣の供給が増えると行商が一層盛んになる道理である。
 やがて、「道々の輩」も水銀軟膏に限らず、需要度の高い貴重品を携えることになるのは自然の成り行きである。需要度の高い貴重品と謂えば、一に人体生薬、二にアヘンである。
 一の人体生薬では、浅山丸の存在が知られているが、これは「人胆」を主原料としてアヘンと混じた肝臓の強化薬で、江戸時代に伝馬町大牢の処刑人山田浅右衛門が製造して巨利を収めた史実がある。通常人には原料入手が困難のため貴重で、当然高価であった。『南紀徳川史』に、「オンボ薬」として記載されているのがこの種の人体生薬と思われるが、この他に、近年西洋医学からも注目を浴びるようになった臍帯血や胎盤(プラセンタ―)も甚だ貴重な薬で、原料は出産に伴うものであるから、いわゆる「産所」の民が掌握するところであった。
 これら秘薬は、稀少なるがゆえに貴重で、貴重なるがゆえに高価なのである。高価なるがゆえに、原価に占める輸送費の割合が低くて行商に向くのである。そもそも、その稀少性は原料を秘密にするところに生じているから、原料の正体とその所在は厳秘にされたわけである。
 一方のアヘンは、戦国時代に忍者が自白剤として用いたことは確実な史実で、宗教界では古くから用いていたと考えられるが、その証拠を残してないのは当然であろう。文献的にも地理的にも証明はできそうもないが、これを秘かに製造するならば、やはり山奥で行なうことになろう。仄聞するところによると、サンカ(私の謂う第一種・第二種を含めて)がこれに携わっていたそうである。
●かくして、ハンセン病の介護を重要な柱の一つとした西大寺流真言律宗が、傘下に収めた各宗の極楽寺を拠点として展開した行商のネットワークが貨幣経済勃興の重要な契機となったのは、見やすい道理であろう。
 話は替るが、江戸時代にはハンセン病を発症する者が出ると、家族が旅費を工面して患者に持たせ、西国八十八ヶ所や熊本の清正公祠などの霊場への巡礼に旅立たせた。霊場には先輩としての患者が定住して布施を待っていた。旅費がない患者は、死ぬまで乞食として霊場巡礼をしたり、患者集落(ライ村)を成して勧進を受ける生活をした。貧民の間に住むこともあったが、差別は少なかった。
 ハンセン病の故事を集めていたら、「患者が漁にでると鮪がよく獲れるという迷信があり、マグロ漁業に携わる者もいた」との伝承がある。これで気が付いたのは、若い頃にマグロ船に乗っていた年配者の話である。
「ワシが昔乗っていた船に、同室に患者がいてな、毎日自分で注射をするんや。移らんさけに大丈夫や、と言うんで、そのまま見とったよ」
との言である。
 後日、右の伝承を知ったので再確認したら、「いやあ、梅毒やったんやないか」と受け流された。しかし、例の注射話は、そもそもハンセン病に関する会話の中で出てきたのである。伝染力という点では梅毒の方が怖いのにと思ったが、そのまま承っておいた。(つづく)