洞察索引  

                      

 Ⅰ伏見宮と散所商業網 6 結数理系シャーマンの流れ
           (世界戦略情報「みち」平成25年(2673)12月1日第394号)

●生まれてから見たことがないNHKの大河ドラマの来春のテーマは黒田官兵衛と聞いたが、官兵衛がハンセン病者であったことを、口にせずとも誰しも知っていた時代は過ぎ去った。ハンセン病患者が清正公祠に参っていた意味を知らない者たちの時代となった今、官兵衛が有岡城の土牢でハンセン病に罹病したことを知ったうえで製作したのであろうか。芭蕉の『奥の細道』の実の著者は蕉門十哲の一人で彦根藩の重役森川許六と聞くが、その許六が晩年ハンセン病のために、面会を忌避したことを知る芭蕉研究家が果して何人いるだろうか。
 ここ数回、ハンセン病について繰り返し述べてきたのは、結局この病気が社会に与えた影響を理解しないで古代史・中世史を論じても意味がないからである。
 私の歴史研究は近現代史から始まったが、その端緒となったのが平成七年大晦日に吉薗明子さんから送られてきた『吉薗周蔵手記』であった。同年九月一八日に私を尋ねてこられて、所蔵の佐伯祐三絵画の真贋調査を依頼された明子氏は、その来歴資料として『周蔵手記』を提供されたのである。
 当初は明子氏所蔵の佐伯祐三絵画の来歴解明を目的として解読に取り掛かった私は、その過程で日本近代史に横たわる深き闇に気が付いたので、佐伯絵画の解明が一段落した後も、『周蔵手記』の内容が示唆する歴史事象の真相把握に取り組み、今日まで一八年を費やしてきた。
 つまり、わが歴史研究の原点は『周蔵手記』で、これを日本近現代史の壁に空いた蟻の一穴と見た私は、その一角に鑿を入れて切り崩し、幕末の薩英戦争の後に薩摩藩の下士たちの間に生まれた秘密結社の存在を探り当てた。
 これを「薩摩ワンワールド」と名付けた私は、その背後に英国を拠点として活動する地政学的な海洋勢力の存在を覚り、これを「在英ワンワールド」と名付けたが、これによって、世界史という長城の巨大な壁に、人が入れるほどの規模の穴をようやく開けることができたのである。存在を突き止めたとはいうものの具体像を表象することができず、機能だけ判って実体が見えない「在英ワンワールド」は、あたかも理論物理学が論ずる仮想量子の如きものというしかなかった。
 ところが、一八年目に入った今年の春、「在英ワンワールド」の実体が日本から発祥したことを覚るに至ったのは、京都皇統代から南北朝の強制統合の史実を教わったからである。「在英ワンワールド」とは、国史上の南北朝時代にウラ天皇として成立した永世親王伏見殿が政治・経済・社会的戦略の集合体たる「大塔政略」に基づき、欧州各所に作った拠点を中心に活動してきた政治的・経済的勢力のネットワークなのである。
 したがって「在英ワンワールド」の意味は、「伏見宮海外ネットワーク」と大凡同じものであるが、やがて世界史の展開に伴ってその舞台は欧州のみならず全地球に広がり、時代の経過に連れてその首脳部も伏見殿から堀川御所の京都皇統に交代したから、より正確には「堀川系世界ネットワーク」とでもいうべきであろうが、今となっては堀川御所も適確な名前とはいえないので、当面は「ウラ天皇世界ネットワーク」とでも呼ぶしかない。
 私の歴史研究の目的は、「ウラ天皇世界ネットワーク」の実情を解明して、その歴史的変遷と未来に向けた方向性を世界に伝えること、と自覚したのが今年である。本誌を借りて歴史研究を今から展開していくに当って、原点となる『周蔵手記』と吉薗周蔵について説明するため、以下に吉薗周蔵を閲歴する。
●日向国西諸縣郡小林村堤の豪農吉薗家の養女になった岩切氏ギンヅルが、公家の堤哲長の妾として慶応元年に生んだ堤次長は明治初年、実家に戻る母に従って日向の吉薗家に入り、林次郎を称した。その長男で明治二七年生れの吉薗周蔵は幼時から数学的才能を発揮し、小学校時代から数学と理科を独学で自習したから、明治三九年に都城中学に飛び級で入った時、すでに中等学校の数学課程を超えていた。逆に人文科目には全く興味がなかった周蔵は一ヶ月も通わないで都城中学校を中退してしまう。
 中退後は宮崎県庁の土木測量の手伝いなどをしていたため、上級学校の受験資格がなかった周蔵を、ギンヅルが海軍大将山本権兵衛に頼み熊本工高を特別受験させてもらう手筈を整えた。薩摩藩京邸の女中頭をしていたギンヅルは薩摩藩屯所にいた下士たちの面倒を見たので、新政府の高官に知り合いが多かったのである。
 熊本市内の学生下宿に泊まって熊本工高の受験に備えていた周蔵は、試験の前夜悪友に誘われて登楼した娼館から出られなくなり、試験を放棄してしまう。家に帰ることもならず、下宿でゴロゴロしていた周蔵は、同宿の五高生たちが解けずに騒いでいた幾何の問題をのぞき見て、スラスラと解いてやったので、驚いた五高生たちは、自分たちの師匠と数学の試合をしてくれ、と言い出した。
 頼まれたら断ることのできぬ性格の周蔵が仕方なく五高生について行った先が熊本市内出水の加藤邑邸で、ハンセン病に冒された加藤邑と同病の二人の妹がそこで下男夫婦の世話になっていた。異相のために誰からも老けて見られていた周蔵は、会った途端に実年齢を言い当てられたために親しくなった加藤から、熊本医学校は受験資格が不要と教わり、早速受験して合格し医専生徒となったが、下宿屋で一歳年上の少女に言い寄られ、子供ができたので所帯を持とうと迫られると怖くなり、宮崎に逃げ帰った。
 その後ギンヅルの薦めで上京し、堤家の縁戚の武者小路実篤の安孫子の家に棲み込んでいたが、やがて帰郷して農業の手伝いをしていた周蔵を、陸軍大臣上原勇作の使いと称する前田治兵衛が訪れたのが大正元年八月一日であった。
 陸軍中将上原勇作は、ギンヅルの異母姉の四位タカ(孝子)が龍岡家に嫁して産んだ子で、ギンヅルの甥であった。陸軍士官学校旧制第三期工兵科を卒業した後、フランスの砲工学校で工兵科を終えた勇作は、日本陸軍の工兵科を西洋式に一変させたので、陸軍工兵の父と呼ばれた。
 上原勇作の命にしたがい、三年ぶりに熊本に赴き東亜鉄道学校に入学した周蔵は一〇日ほど出席しただけで在籍のまま、勇作の別命にしたがい熊本医専の門を再び潜った。今度は薬事部の助手となり、薬事部主任の阪井氏の協力を得て、ケシ栽培を始めたのである。
 二年後、不通学ながら東亜鉄道学校を首席で卒業し、測量技師の資格を取った周蔵は、以後は一貫してケシの栽培指導と品種改良に勤しむ一方で、上原元帥個人付の特務(諜報員)として大いに活躍し、歴史の裏面に残る数々の成果を上げた。なかでも、第一次大戦中に渡欧してウィーン大学のランドシュタイナー教授の研究室で血液型理論を秘密裡に習得して日本に輸入したのは、日本近代史の裏面を飾るものである。
 吉薗周蔵・明子の父子と親交があった大徳寺今日庵の故立花大亀和尚から、明子さんを通じて私が教わったことに、公家の堤家も越前藩士の堤家も日向国西諸縣郡長の堤家も、すべて(同族)とのことだったが、この意味も今年になって、ようやく覚ることができた。
●周蔵の祖父は堤哲長、父は吉薗林次郎(堤次長)、祖母は岩切氏ギンヅル、母ハツノは隼人族の木下氏から来ていた。岩切氏は古代に陸奥国岩切から日向国に移住してきた族種橘氏の分流で、家紋はタチバナであるが、隼人を標榜する吉薗姓を称する吉薗氏も家紋にタチバナを用いているから、実際は橘氏であろう。
 橘氏は熊野国を発祥とする海洋系族種で、天平時代に敏達天皇の皇孫の形を取って公家に入り源平藤橘四姓の一つとなったが、本来は建築設計と測量術を得意とする数理系シャーマンの族種で、縣犬養氏などを称して民間に蟠踞していた。本来の職能は測量・水利であって、水路設計には欠かすことのできないカバネであったから、同族には「井」の付く姓が多い。
 公家堤氏は藤原北家を称する甘露寺流公家の堤家に潜入した橘氏で、堤哲長に数理系シャーマンの遺伝子が潜んでいた証左は子息の松ヶ崎萬長に見ることができる。
 孝明天皇の遺詔により堂上に列せられた萬長は岩倉遣欧使節団に加わってドイツに留学し、帰国後に外相井上馨の官庁集中計画の主任部長として鹿鳴館などを設計した当時有数の建築設計家であったが、その遺した青木周蔵別荘は重要文化財に指定されている。
 哲長の孫の吉薗周蔵も、右に挙げた如く優秀な数理系シャーマンとしての片鱗をみせた。測量術に対する志向はタチバナ氏の遺伝子に宿るもので、都城中学を中退した周蔵が選んだのが測量助手であった。後に血液型の探求にウィーンに行った際も、ウィーン大学に潜入するまでの間をウィーン市街の測量で時間を潰していたという。
 堤家は甘露寺貞長(一六一五~七七)が寛永八(一六三一)年に創設した堂上新家の中川家で、三代中川輝長が延宝六(一六八七)年に堤と改称したのである。四代目が夭折したので、五代目が町尻家から、六代目が高倉家から入って堤家を継いだが、三代輝長の女が産んだ坊城俊清の子の代長が継いで七代目となった。この処から推すと、町尻と高倉から入ったのは、代長までの中継ぎのためと考えられる。
 この代長の娘が薩摩藩主島津重豪の側室になり、藩主島津斎宣を生む。以下、斉宣 → 斉興 → 久光 → 忠義 → 忠重と代々続いた男系が島津家の当主となるが、特筆すべきは忠義の息女が久邇宮朝彦親王の王子邦彦王に嫁ぎ香淳皇后を生んだことである。つまり、堤代長は今上陛下の先祖の一人に当たるのである。
 右に見たように、坊城家から入った代長が堤家七代目で、以下男系は八代栄長 → 九代敬長 → 十一代維長 →十三代哲長と続くから、松ヶ崎萬長と吉薗周蔵らの男系先祖は取りも直さず坊城家である。
 坊城家の当主俊成は建築史家の工学博士であるが、その数代前は勧修寺から入った養子であるから、坊城家は実は勧修寺の男系なのである。(つづく)