洞察索引  

                      

 Ⅰ伏見宮と散所商業網 7 大塔政略と堂上家新設
          (世界戦略情報「みち」平成25年(2673)12月15日第395号)

●家格が名家の公家中川家は寛永年間に立てられた新家で、家祖甘露寺貞長の実父は甘露寺時長(一説に弟の嗣長)で、その時長の実父は正親町三条貞秀である。
 家格が清華に次ぐ大臣家の正親町三条家は、藤原不比等の次男房前と橘系の牟婁女王を両親とする真楯から始まる藤原北家の本流から出た。その男系を辿れば、真楯 → 内麻呂 → 冬嗣 → 長良 → 基経 → 忠平 → 師輔と下って兼家に至り、兼家の子の道長が、「この世をば我が世とぞ思う」と豪語した摂関家の極盛期をもたらしたのである。
 因みに公卿の最高家格とされた五摂家の源流は道長の六代孫の基実と兼実で、基実が立てた近衛家と分流鷹司家、及び兼実が立てた九条家と分流一条家・二条家が五摂家となった。以後この五家以外には摂政関白に就く事ができない慣習が生まれ、後年に唯一の例外として加わった豊臣家はすぐに滅亡した。
 師輔の弟の公季が閑院流の家祖となるが、閑院とは真楯の孫で真楯流の基礎を築いた冬嗣の邸の通称で、これを伝領した公季が閑院大臣と呼ばれたことによる名称である。甥の道長を支えて遂に太政大臣に登った公季の子孫は、三代続いて外戚となった。すなわち孫の公成の娘が後三条天皇の女御となって白河天皇を産み、曾孫の実季(茂子の兄)の娘苡子が堀河天皇女御となって鳥羽天皇を産み、玄孫の公実(苡子の兄)の娘璋子が鳥羽天皇の皇后となって後白河天皇を生んだのであるが、このことが日本史上重大な転機を成したことは後述する。
 公実の子が三条(転法輪三条)・西園寺・徳大寺に別れ、西園寺の庶流今出川と併せた四家が、後に七清華家と呼ばれる家格の中核をなした。あとの三家は、道長の曾孫から始まる花山院家および大炊御門家と、村上源氏の久我家である。
 また、転法輪三条家の庶流正親町三条家は、五代目公秀の娘秀子(陽禄門院)が光厳上皇典侍として崇光天皇の偽装母となり、また自ら後光厳天皇を生んだことにより皇室外戚となり、以後は大臣を輩出したので家格を大臣家とされ、同じく転法輪三条の庶流三条西家と共に、清華に次ぐ家格の三大臣家の二家を占めた。あとの一家は村上源氏の中院家である。
 すでに述べたように、「大塔政略」の根幹をなす「南北朝の秘密統合」で、護良親王と紀州調月村郷士井口左近の娘との間に生まれた益仁親王が光厳上皇の第一皇子を装って崇光天皇となったが、これを以て世間を欺き通すには、陽禄門院秀子が自らその生母を標榜――卑俗に言えば片棒を担がねばならなかったのである。敢えてこれを行なった秀子が四年後に生んだ後光厳天皇が、「同母兄」の崇光天皇と対立する形で新北朝を創め、後円融 → 後小松 → 称光と四代にわたって「大塔政略」を支えたのであるから、その基点となった正親町三条秀子は正に建武のキイ・ウーマンと言うべき女傑であった。
●ここで話は逸れるが、南扶余族の百済貴人から帰化したと推定される藤原鎌足が、「中大兄」と呼ばれた皇族の一人と協同し、権力者蘇我氏を放伐して建てた天智―鎌足政権には、今も隠せない百済色が濃厚であった。
 ここに百済とは、結論だけ言えば、太古のオリエント文明の時代に日本皇室と分岐した一派が騎馬民の一種扶余族に混じ、さらにその分派南扶余族となって、朝鮮半島南端の東シナ海寄りの地に百済王国を建てたのである。その百済が、太古の所縁を辿って大和王権に接触してきた時、皇室がこれを排斥せず好意を以て迎えたため、継体天皇没後の日本皇統は急速に百済色に染まり始めたのは、歴史事象として顕著である。
 中大兄と提携して覇権を握った鎌足が、日本簒奪のための根本戦略として定めたのが、家系偽造であったのは、煎じ詰めれば家系とは史書にほかならないからである。国家支配者の交替の方法を、シナ大陸で「禅譲放伐」といい、武力放伐の覇道以外に異族への禅譲があるとされるが、万世一系を原則とするわが國體のもとでは、皇族の間で禅譲は有り得ても、臣下は勿論外来者に禅譲なぞ有り得ないのである。これを認識した鎌足が皇室系図を偽装し皇室家系に侵入することで目的を果せることに気が付いたとしても、不思議はない。
 鎌足が半島ないし大陸から招聘した「不比等」を田辺史大隅の家で養育させた目的は、第一に日本語研修であった。百済系の渡来人で、飛鳥時代に中堅官僚として租税・出納事務など国家財務に携わった田辺史が河内国田辺(大阪市阿倍野区)および玉出(大阪市西成区)一帯に居住していたのは、この地が百済人到来の玄関先であったため、扶余語と和語の通訳を職能とする田辺史が本拠としたのである。
『続日本紀』文武天皇四年六月十七日条に、「藤原不比等ら撰定者に録を賜う」とあり、大宝律令の撰定者に賞与が下された中に、不比等と並んで田辺史百枝・田辺史首の名があるが、鎌足が招聘したこの渡来人が「不比等」と称したのは、養育者の一族に因む名を称する当時の風習に拠ったものとされるが、史は歴史の「史」である。歴史編纂は取りも直さず系図編纂の文筆作業で、来日目的と一致したその人物が、田辺史のカバネを貰って不比等と称したのであろう。
 不比等が編纂した偽史は『日本書紀』と呼ばれるが、その系図に用いた家系作造法が、古代エジプト流であることは歴然である。これが扶余族の伝統に拠ったものか、さらに源流の古代エジプト流を直接携えて来たのかについては、今のところ定めがたく、二通りに分かれる。
 その一は、古代エジプト文明が中央アジアの騎馬民を伝って扶余族に及び、これが百済流史学となって田辺史に伝わっていたとの仮説で、この場合には、日本簒奪を目論んだ鎌足が、扶余王族よりもさらにオリエント騎馬民の本流に属する不比等を、主筋すなわち「玉」とするために、わざわざ招請したと見なければならない。
 その二は、田辺史の伝来した百済流史学が本流を離れるうちに、既にかなり訛っていたので、騎馬族の本流として、純粋の古代エジプト流史学、すなわち系図造作術を体得していた不比等をどうしても招請する必要があった、と考えるのである。
●さて、大徳寺今日庵の立花大亀和尚が「公家の堤も越前藩士の堤も、諸縣郡長の堤家もすべて同族」と教えてくれたことがあるが、この三家がすべて正親町三条系との意味とは思いにくかった。ところが最近のことに、京都皇統代の加勢舎人から「皇別の中で、堤家だけが珍しく政治に関与した」と聞いた時、大亀和尚の謂う同族の堤家とは、皇別某氏の一族と推察した。つまり、甘露寺時長(ないし嗣長)の父とされる正親町三条貞秀が、全くの別家系から正親町の籍に入れられたと推量したのである。
 そこで、さる一〇月三一日に、加勢舎人を通じて京都皇統代に問い合わせた処、果せるかな「正親町三条貞秀は丹波の皇別安藤氏である」との回答を戴いた。想像通り、永世親王伏見殿の予備血統の皇別丹波安藤氏が正親町三条家に入って貞秀と称したが、その子が甘露寺時長(ないし嗣長)となり、堂上の中川家を創めたのである。
 公家の家系は養子を繰り返してきたが、この正親町三条貞秀の例で判るように、時には個人の入替えすら敢行するから、真実のDNAを家系図で追究しても徒労に終わる。したがって、ここはひとまず堤・坊城・勧修寺を一括したうえで、その中に数理系シャーマンの遺伝子が色濃く存在すると解して置くしかない。
 越前藩士堤正誼は幕府の軍艦操練所に学んだ後、明治二年に福井県権大参事に任じたが、やがて東京皇室に召され、宮内省で営繕・調度を担当して昇進し終に宮内次官に昇って男爵に叙せられた。
 堤正誼の先祖について、『華族家系大系』には、「もと近江国堤郷に住んで堤を姓とした」とあるが、吉薗家の住所も西諸縣郡小林村の字「堤」なのは偶然ではない。拙著『国際ウラ天皇と数理系シャーマン』で紹介した京都皇統の松下豊子(孝明天皇の皇女壽萬宮の娘)が降臨した紀伊国海部郡加太浦にも「堤」の小字があり、傍を流れる堤川の川端には、役行者のために宿坊を務めた「行者迎えの坊」の子孫向井氏が今も住んでいる。
「堤」は堰・溝・井ノ口と共に用水施設を構成する基本的要素で、全国に散在する「堤」の地名は、古代に水利事業に関係し水利施設の設計に携わった数理系シャーマンの一族に因むことは明らかである。「堤」の姓もこれを示唆するから、公家の堤家も、その本当の血統をたどれば、必ず数理系シャーマンに行き着くのである。
 南北両統の強制統合の秘事を七〇〇年後の今になって知らされた吾々は、正親町三条秀子が「大塔政略」に沿って崇光天皇御生母の役をこなしたばかりでなく、後光厳の実母として新北朝四代の基となった事績を忘れてはならない。
 伏見殿栄仁親王の側室で貞成親王を生み、西御方と呼ばれた正親町三条治子も、明治一〇年元老院編集の『参輯御系図』が意図的に「貞成親王 御父不明」と表記したことで、「足利義満と密通して足利偽朝の国母となった」などと濡衣を着せられ、今に至るも悪声を浴びている。しかく正親町三条家が、史上の重大局面でしばしばトリッキーな役割を演じているのは、むろん自ら図った訳ではなく、伏見殿の命に従ったと観るしかない。
 中川家(のち堤家)の創立事情を洞察すると、正親町三条貞秀なる人物が子息の時長(ないし嗣長)を甘露寺に入れ、その子の貞長をして新公家中川家を創めさせたことになるが、堂上新家の創設は江戸初期に流行したが、決して安易な事ではなく、背後に余程の政治力が働いたとみるべきである。中川家創立の一件で表面に出たのは正親町三条貞秀だけだが、歴代当主の名を、「公」と「実」の雁行とする正親町三条家において、「貞秀」の名を称するのは不思議で、正親町三条家の歴史自体に前述の故事に絡む謎があり、右に挙げた正親町三条家の故事に鑑みれば、貞秀の背後に伏見殿の策略を感じざるを得ないのである。  (つづく)