洞察索引  

                      

 Ⅰ伏見宮と散所商業網 8 皇別丹波安藤氏と堤家の謎
             (世界戦略情報「みち」平成26年(2674)1月15日第396号)

●吉薗周蔵の祖父堤哲長の出た公家の堤家は、甘露寺時長(一説に弟の嗣長)の子の貞長(一六一五~七七)が寛永八年(一六三一)に創設した堂上新家である。家格は名家で、創立当時は中川を称したが、二代目の輝長が延宝六年(一六七八)に堤と改姓した。血統的には清華家の正親町三条貞秀なる人物が、子息の時長(ないし嗣長)を甘露寺に入れ、その子の貞長をして創立させた新堂上の中川家が、二代輝長の時に堤に改姓したのである。
 歴代当主の名を「公」と「実」の雁行とする正親町三条家において、この人物だけが「貞秀」の名を称するのが不思議である、と前稿で述べた。その後聞くところでは、この貞秀なる人物は、ウラ天皇伏見殿の潜流たる皇別丹波安藤氏が一旦正親町三条家に入ったものという。
 堂上新家の創設は江戸初期に幾つか見られるが、公家制度上の重大事である新家の創立は安直に行なわれるものではなく、背後に余程の政治力が働いていた場合しかないのである。中川家の創立は伏見殿の相続問題と深く関連していると聞く。たしかに伏見殿の名は「貞」と「邦」の雁行だから、異例の「貞秀」の名はそのようなウラ事情を反映したものと考えられる。
 万世一系の根幹をなす永世親王家の伏見殿に断絶の危機が訪れた承応三年(一六五四)は、わが国史上で特異な年であった。一〇代伏見殿貞清親王が薨去し王子邦尚親王(一六一五~五四)が一一代を継ぐも子なくして薨去、弟の邦道親王(一六四一~五四)が一二代を継ぐも同年に夭折してしまったのである。
 同じ年に三代続いて薨去して断絶の危機に直面した伏見殿を継いだのは、七代伏見殿邦輔親王の王子で、丹波国亀岡千年山で皇別安藤氏となり安藤惟実を名乗った邦茂王の曾孫(一六三二~九四)が安藤家の養子長九郎として西陣鍛冶埋忠の弟子となっていたが、養家が運動して京都所司代の吟味を受けたところ落胤と認められ、伏見殿の一三代を継いで貞致親王と称した。
 伏見宮家の王子貞秀が正親町三条家に入り、甘露寺家を使って中川家を創立したのは寛永八年(一六三一)で、前将軍秀忠の野望により生じた確執から、存続の危機を感じた伏見宮家が打った手の一つと聞くが、詳細は判らない。この前後は、宮中のみならず将軍家光の江戸幕府も大いに揺れていて、翌年に前将軍秀忠が薨去したのは、息女を入内させて皇室の外戚となった秀忠が摂関家を目指して族籍編成権を掌握しようと図ったため、伏見殿の配下に成敗されたと聞き及ぶ。その子の駿河大納言徳川忠長が同年に自殺に追いやられたのも、当然これに関係したものであろう。そのような経緯で創立された中川家が改姓した堤家では、やがて男系が絶え、女婿に迎えた勧修寺流坊城家に替っていったのである。
 正親町三条家は、藤原北家の閑院流三条家の庶流で、本家の三条家(転法輪三条)と区別するために正親町三条と称したが、維新後に実愛が嵯峨と改めた。五代目公秀の息女で光厳上皇の典侍となった秀子は崇光天皇の生母とされているが、実は建武の秘密合意に基づく南北両統の強制統合すなわち「大塔政略」によって振付けられた崇光天皇御生母の役を見事にこなしていた事を、吾々は七〇〇年後の今になって初めて知らされた。
 実子が後光厳天皇となった秀子は、陽禄門院と称されて新北朝四代の基となり、以後の正親町三条家は皇室の外戚となって大臣を輩出したため、家格を羽林より上位で清華に次ぐ大臣家とされた。
 その後、正親町三条実治の息女治子が伏見殿栄仁親王の側室となり、貞成親王を生んで西御方と呼ばれたが、元老院が明治一〇年に編集した『参輯御系図』が、ある種の意図により、「貞成親王 御父不明」と表記したため、「足利義満と密通して足利偽朝の国母となった」との根拠のない濡れ衣を着せられて、今に至るも悪声を浴びている。
 しかく正親町三条家が、史上の重大局面でしばしばトリッキーな役割を演じたのは、自ら望んだ訳ではなく、伏見殿の命に従ったと観るしかない。右の「ある種の意図」もその例であることを拙著『南北朝こそ日本の機密』で明らかにしたが、正式史料にこのような形で偽史の痕跡を残すのは、これにより、後世の史家に歴史修正を期待し、その作業の糸口にしたのである。中山忠能が「中山忠能日記」に、表向き孫の明治天皇を「奇兵隊天皇」と記したのもその伝で、前掲拙著によってようやく歴史修正作業が始まったと、京都皇統代が観ていることを、加勢舎人から伝えられた。
 摂関家から出た正親町三条家が平安中期に皇室の外戚となり、上皇と組んで摂関家を掣肘して院政の実現を促した歴史を見ると、その出自そのものに謎が潜んでいるように思える。要するに、ホントに藤原北家の血統なのか、ということである。
 平安期に賜姓を制度化して皇孫を源平両氏とし、源平藤橘の四姓で朝廷運営を独占した共同謀議の中心は、不比等以来、諸家の系図編成権を独占的に掌握した藤原北家の中の摂関家であった。その北家から出た正親町三条家が上皇と組んで院政を実現し、摂関家の荘園私有化を妨害したのを見ると、右のような疑念が湧くのを禁じ得ないのである。
 ことに建武の新政における秘密合意(大塔政略)で南北両統を強制統合させた際、護良親王の王子益仁の実母役をこなした光厳上皇の典侍陽禄門院秀子が正親町三条家から出ていることも偶然とは思えない。
 堤姓の本質については前稿にあらかた述べた。中川家の二代輝長が延宝六年(一六八七)に堤と改称した理由は未詳であるが、この三代輝長を以て堤家に入った皇別安藤氏の男系は絶え、輝長の女が生んだ坊城俊清の子代長が七代目を継ぎ、以下の男系は坊城家となった。代長の娘の「お千万の方」が島津重豪の側室として産んだ九代斎宣の子孫が、その後連綿として薩摩藩主となり、一三代忠義の姫俔子が久邇宮邦彦王妃となって香淳皇后を生んだから、堤代長は今上陛下の先祖の一人に当たるのである。
 因みにこの元旦、代長の子孫の一人青蓮院前門跡の東伏見慈洽氏が満一〇三歳で亡くなられた。長姉が皇淳皇后、次姉が三条西夫人信子、三姉智子が東本願寺大谷光暢門主の裏方の故東伏見氏は、昭和天皇および三条西伯爵、東本願寺門主とは義兄弟の仲であった。
 堤家にここまで拘ったのは、実は堤哲長の経歴を洗ううちに、堀川御所に関係すると思しき事実を発見したからである。
 孝明より四歳年上の堤哲長は孝明の側近で、幕末の朝廷で実質侍従長を勤めていたため孝明の信認が厚く、堀川御所へ隠遁してウラ天皇になった孝明の命を受けて、ウラ天皇資産の管理人となった。孝明はウラ天皇資産の管理を哲長に命ずるに当り、哲長に本家甘露寺から養子を迎えさせて堤の家督を本家に返還させ、一方で、哲長の次男萬長に新たに堂上に取り立てて松ヶ崎家を創立させ、その埋め合わせをした。
 慶応三年一〇月二四日、徳川慶喜が上表して征夷大将軍職を辞すと、奇兵隊天皇の朝廷はこれに対応して、甘露寺萬長に家禄三〇石三人扶持を賜り、新しく堂上に任じた。後世に残る史実の確証として典型的なものは人事記録であるから、公的な明治史が徳川慶喜の征夷大将軍職の辞表呈出を以て始まるのは当然であるが、これに対応するウラ明治史は、堤哲長の次男萬長を新しく堂上に任じたことを以て嚆矢とするのである。
 禄高四五〇万石の徳川将軍家の辞表と、家禄三〇石三人扶持の貧乏公家の創立が対応するのは歴史上一種の奇観というべきである。この優渥なる恩典が堤哲長に向けられたものであることは当然で、それを示すのが明治政府の修史局が編纂した公式資料の『明治史要』と、東京帝大総長山川健次郎が監修した『会津戊辰戦史』である。
 慶応三年一二月九日になされた王政復古の告諭に伴い、将軍慶喜と会津侯・桑名侯の幕府関係者は固より、朝彦親王以下の公武合体派の公家が朝参停止などの処分を受ける。問題は、『会津戊辰戦史』が公家二七人の中に堤哲長の名を挙げるのに、『明治史要』には哲長の名が欠けていることである。これは『会津戊辰戦史』に杜撰疎漏があることを決して意味しない。監修者の山川健次郎は家禄一〇〇〇石の旧会津藩家老で、岩倉使節団に同行し米国に留学してイェール大学に学び、帰国して理学博士となり、再度にわたり東京帝国大学総長を務めたほか、京都帝大・九州帝大の総長に任じた明治期を代表する教育家である。兄の山川浩は戊辰の役の勇将で、その奮戦に感じた敵将谷干城が推薦して陸軍に入り、西南の役で熊本城を支援した戦功は周知のところとなり、のち陸軍少将に任じ、男爵に叙せられた。山川浩・健次郎兄弟の合作史書『京都守護職始末』は会津藩の立場から幕末の諸事を述べたもので、渋沢栄一の『徳川慶喜公伝』にも匹敵するホンモノの史書とされている。
 その続編である『会津戊辰戦史』は山川健次郎の監修に懸かり、写本を避けて原典に拠ることを方針としているから、朝廷布告の原本に堤哲長の名があったと看るしかない。むしろ官製史料の『明治史要』の方が後年の編集に際し、何らかの理由で原本を改竄したと考えるべきである。
 一二月九日に堤哲長に下された処分が謹慎か罷免か、どんな形であったにせよ、去る一〇月二四日の松ヶ崎萬長の堂上家創立に関する孝明天皇の遺詔と密接に関連していることは、条理上からも明らかで、以下その所以を究明していく。
 まず慶応二年末に天然痘で急逝した(とされる)孝明天皇が、遺詔を以て「堤哲長の次男萬長を堂上に班するよう」に命じたことは、最期の御病状に照らすと頗る奇異に感じられる。
 遺詔の理由も判然としないため、巷間にこれを憶測して「萬長は孝明の隠し子であった」との臆説さえあるが、これは典型的な下衆の勘繰りで、とうてい首肯できない。公金で養われる戦後日本の学校史家が、揃いもそろってこのような井戸端会議的史実探究しかできないのは、日本国民としてまことに無念というしかない。(つづく)