洞察索引  

                      

 Ⅰ伏見宮と散所商業網 9 族種北朝と族種南朝
         (世界戦略情報「みち」平成26年(2674)2月1日第397号)

●孝明天皇の遺詔に基づいて新堂上の松ヶ崎家を興した萬長はドイツで学んで明治期を代表する建築設計家になるが、「萬長を堂上に列せよ」との遺詔はたった一人の建築家を誕生させる目的のものではない。遺詔は「堀川政略」に基づく孝明天皇の偽装崩御と堀川御所入りに深く関連するものであった。
 慶応二年一二月二五日に孝明天皇が(表向き)崩御された後を受け、長州藩奇兵隊士大室寅之祐が慶応三年正月九日に践祚して新天皇になられた。それから一〇ヶ月を経過していたが、新天皇ではなく孝明の遺韶として「萬長を堂上に列せよ」との勅命が出されたのである。
 こういう場合、世人は萬長個人に眼を向けるため、つい見逃してしまうが、この遺詔の真意は堤哲長に向けられていた。つまり、「そなたの子息萬長に堤家と同じ家禄の新家を興させる。そなたは堤の家督を甘露寺に返し、堀川御所で朕を支えてたもれ」との、ウラ天皇としての勅命だったのである。
 新天皇の朝廷は同年一一月二〇日、蔵人北小路俊昌を堂上に列し、松ヶ崎家と同じ三〇石三人扶持を支給することとした。新堂上北小路俊昌は翌慶応四年八月から伊那県知事を勤めるが、贋二分金問題と伊那県商社事件に坐して明治三年五月に失脚した。この失策は家格に影響せず、明治一七年の華族令で松ヶ崎と同じ男爵に叙せられた。
 大政奉還後の堂上家新設は極めて稀で、松ヶ崎と北小路の他には、東山道鎮撫軍総督として小栗忠順の亡命支援を果した岩倉具視三男の具經と、岩倉具視配下の国学者で王政復古の詔勅を起草した玉松操、および山科家庶流の遠文の三人のみ。いずれも華族令で男爵に叙せられたが、岩倉具經はその後の勲功により後年子爵に昇爵した。
 岩倉具經と玉松操は維新の中心人物岩倉具視を補佐した功績が具体的かつ顕著であるから、堂上入りに不足はない。だが、北小路俊昌と若王子遠文の堂上入りの理由はよく分からず、おそらく松ヶ崎萬長と同様で、背後に重大な事情が秘められているものと思われる。
 ここで、当時の武士と公家の家禄について簡単に説明する。武士や公家の家禄には「知行」と「俸禄」があり、上級武士および公卿の家禄の形態は「知行」で、采邑といわれる知行地の徴税権を与えられる。下級武士の下士・卒族および下級公家の平堂上・諸大夫の場合は「俸禄」で、その家に給される「禄」と職務給の「俸」とを併せて家禄と表現する。「俸」の単位が扶持で、一人扶持が一日に付き玄米五合の三六〇日分で一・八石となるから三人扶持は五・四石である。したがって三〇石三人扶持といえば、〆て三五・四石となる。
 慶喜将軍辞任は予定通りで取り立てて言う必要もないが、『明治史要』のその後に記された「甘露寺萬長ヲ堂上ニ班シテ松ヶ崎氏ヲ称セシム」という取るに足りない一文が、大政奉還と同時に進行しつつある「堀川政略」の一工程を暗示していたのである。三五石の新公家の誕生と四五〇万石の天下人の去就が慶応三年一〇月二四日の詔勅に同等の意義を有したのは歴史の皮肉であるが、その有した意味を以下に明らかにしていきたい。
『明治史要』の記載では「左中弁甘露寺勝長の義子」とされている萬長は、堤哲長の安政六年(一八五九)一〇月生まれの次男で甘露寺家の養子に入れられていた。当時九歳の萬長は実父と同等の家禄・扶持および松ヶ崎の姓を賜り新たに堂上家を興したが、この優渥な恩典は孝明天皇の遺詔によるもので、奇兵隊から来られた新天皇は関係していない。
 松ヶ崎萬長は明治四年、一三歳で岩倉使節団に加わり、そのままプロイセンに留学し、ベルリン工科大学のヘルマン・エンデの下で明治一六年から建築学を学んだ。明治一七年七月の華族令では、家格が名家の公家は家禄に応じ子爵か伯爵に叙爵されたが、松ヶ崎家は大政奉還後に興された新堂上のため、男爵に停められた。
 留学中に男爵になった萬長は、同年一二月に帰朝して皇居造営事務局御用掛に任じる。折しも、鹿鳴館外交の一環として官庁集中計画を建てた外務大臣井上馨が、これを推進するために、同一九年内閣に臨時建築局を設置して自ら総裁に任じ、副総裁を警視総監三島通庸の兼務とした。この臨時建築局の工事部長を拝命した松ヶ崎萬長は、師匠のヘルマン・エンデと建築家ヴィルヘルム・ベックマンをドイツから招いて都市計画及び主要建造物の設計を依頼し、日本から建築家と職人たちをドイツに留学させた。
 来日したベックマンは築地から霞が関にかけて定規を当てて引いたラインを東京市の中心軸とし、中央駅・劇場・博覧会場・官庁街・新宮殿・国会議事堂などを配する壮大な都市計画を立てたが、財政上その実現はとうてい困難とみられたので、水道計画技術顧問ホープレヒトがこれを縮小し、遅れて来日したエンデがホープレヒト案に基いて計画を修正した。
 条約改正に失敗した井上が明治二〇年に外務大臣を辞めたため、官庁集中計画は頓挫し、臨時建築局は内務省に移管されて、ドイツ留学生は帰国を命じられた。結局、大幅に縮小された官庁集中計画の遺産は、エンデとベックマンの設計による司法省(現在の法務省本館)で、現在は国指定の重要文化財となっている。
 松ヶ崎萬長は何らかの理由で家計が破綻し、強制執行を受けても弁済する資力がない債務者として明治二六年、裁判所から「家資分散法」による家資分散宣告を受け、同二九年一〇月に爵位を返上した。しかしながら、建築設計の分野では目覚ましい実績を挙げ、代表作として第七十七銀行本店や台湾総督府鉄道局の基隆駅があり、中でも外務大臣青木周蔵の那須別邸は国の重要文化財に指定されている。その後も建築設計家として優れた仕事を残した松ヶ崎萬長は大正一〇年(一九二一)に六三歳で他界した。
 萬長の実弟が津和野藩四万三〇〇〇石の旧藩主亀井家を継ぎ伯爵亀井玆明となる。ドイツに留学して国家と美術との関係を考察した玆明は写真術を覚え、日清戦争に際しては志願従軍して戦場を撮影したので、わが国初の戦場カメラマンとして知られている。玆明の曾孫が参議院議員国土庁長官になりこのほど政界を引退した亀井久興氏で、その娘が目下政治家として活躍中の亀井亜紀子女史である。 
 萬長が興した松ヶ崎男爵家の本家に当る堤子爵家は、江戸中期に男系が絶えたのを、坊城家から堤輝長の女婿として入った代長が継いだので、以後の堤家の男系は実は坊城系である。
 坊城家を遡れば、藤原北家閑院流から出た勧修寺系の庶流である。そもそも藤原北家は、南扶余族と考えられる藤原不比等と、族種南朝の中心たる橘氏の牟婁女王との結合から生まれた藤原真楯を先祖とする家系であるから、男系で見ると族種は北朝系である。
●ここに北朝とは、後嵯峨天皇の二人の皇子を始祖として分立した皇統の謂いではなく、民族学上の族種の呼称である。族種北朝とは、オリエント由来の騎馬民族のうち北方モンゴロイドを支配した南扶余族が基本となった民族で、基層はエヴェンキ族すなわち旧名ツングースと考えられる。朝鮮半島西岸の馬韓の故地に建国した百済王国の支配層が日本列島に渡来したものである。日本ではその故地に因んでクダラ(百済)と呼ぶが、朝鮮半島の現在の住民すなわち韓族(新羅人)とは同種とは言えず、百済の故地全羅南北道の現住民とも民族学的に関係が薄いとされている。
 要するに、馬韓の故地に南扶余族が建国した百済王国が、同族(扶余族)の高句麗王国に追撃され新羅王国との抗争にも敗れて、その支配層が日本列島に渡来した百済貴人を主体とし、以後も半島を経由して渡来してきて百済貴人の傭兵となった騎馬族が加わったものが族種北朝の正体である。結局、満洲の奥地から百済を中継地にして渡来してきた北方民族を族種北朝ということになる。
 これに対し族種南朝とは、縄文時代以前から日本列島に住んでいた海洋民が主体で、基層はポリネシアを含む南方モンゴロイドであるが、これにオリエントに発祥してインド洋方面から渡来したタチバナ族と、随伴渡来したネグリト系サカイ族が混住したものと看られる。族種としては熊野に蟠踞したタチバナ族と、筑紫の志賀島を本貫とする安曇族がその主たるものであるが、同じく海洋民の凡海・伊勢部などの部族に関しては、そのカシラを称する渡来イスラエル人のアマベ氏との関係で、今なお不明な点が多い。
 日本民族の源流には、右の南朝と北朝のほかに、アマベに率いられて渡来したと考えられる倭人がいて、実際のマジョリテイは人口の七〇%に達する倭人系である。
 欽明朝から北朝勢力の渡来が盛んになり、一部が大和王権に接近して混入したが、容易にこれが行なわれたのは、おそらく百済貴人と天皇家との間には、太古オリエント以来の深い関係があったため、水際で撃退されるどころか、むしろ歓迎されたものと思われる。
 北朝勢力の一部は九州隈国(熊本)に九州王権を建てて軍事力を蓄え、やがて畿内に進出の勢いを見せた。近年渡辺康則氏は「九州王権の王が近江朝廷を立てた中大兄である」との説を唱え、『万葉集があばく捏造された天皇・天智』として最近公刊した。
 天智の通称「中大兄」について、『万葉集』には「皇子」の敬称を付けていない事実から説き起こしたその論旨は、舒明から天智にかけての覆うべくもない百済色と、百済の王子豊璋と中臣鎌足の関係、および『日本書紀』を編纂した不比等の素姓など、錯綜した謎の多くに明快な解答を与えるように感じさせ、すこぶる肯綮に当る内容である。
 要するに、九州から移ってきて近江朝廷を建てた北朝天智の女婿となり、美濃から飛鳥京に入った南朝天武との間で、一時は南北併合の機会を探ったものの、結局は壬申の乱になったのは、おそらく天武の背後の族種南朝勢力が同意しなかったからである。
 ところが天武の崩御後に天智の娘の皇后鵜野讃良が持統天皇となり、百済貴人の中臣鎌足と結託し政治力を用いて政権を南朝から奪い、百済系北朝色の濃い政権を建てたのである。持統天皇と中臣鎌足の立てた北朝政権が大和朝廷による列島支配強化のために利用したのが、豪族の氏姓認定であった。
 北方民族による隋帝国の成立を受け、対抗上律令制国家を志した大和朝廷の主導権を取っていた北朝は、同時に氏族制度の国家権力による管理を秘かに図ったのである。すなわち、北朝が氏姓認定権を独占し、これによって豪族を支配せんとするもので、その目的で大陸から系図作成技術を有する歴史家(史)(ふひと)の一人を招聘した。
 その人物は渡来直後は、百済系文筆官僚の田辺史の家で日本語と日本の習慣を学んだのち、中臣鎌足の要望に応じて有史以来の偽史作業を行なったが、それが『日本書紀』である。己の職能を誇り自らフヒトと名乗ったその人物が、すなわち藤原不比等である。
 ゆえに族種北朝とは、言い換えれば、中臣鎌足と(その子とされる)藤原不比等を中核とする百済貴人の周囲に集まった百済人亡命者たちの集団であるが、その中から、不比等の次男房前と牟婁女王との結合から生まれた藤原真楯を先祖とする家系が、以後氏姓認定権を掌握し、藤原北家を称して族種北朝に君臨した。牟婁女王は美努王と縣犬養三千代の娘である。族種南朝の中心たる橘氏の姫と族種北朝の中心人物の房前との婚姻は、南北両朝のトップ同士による族種併合という重大な意味を持つものであった。
 南北両勢力の結合の象徴として生まれた藤原真楯の直系が藤原北家で、この後藤原北家が氏姓認定権を独占するのは、房前の北朝勢力だけでなく橘氏の南朝勢力がこれを支えたからとみるべきものであろう。
 ともかく、氏姓認定権を利用して、荘園の開発領主や護衛武士を操作することで荘園の私領化に成功した藤原北家は、朝廷権力を一手に掌握する摂関家となり摂関政治の中心にいて、平安朝前半の国政を恣にした。ところが、やがて北家分流として生じた閑院流と魚名流の各家が上皇と結んで摂家権力を掣肘し、王朝国家体制に移行する。藤原北家分流とされる閑院流と魚名流の公家は、歴史的に摂家権力と始終対立してきた実績を有するうえに、その後も家系に南朝的色彩が強いところを見ると、どこかで南朝系が潜入してきたことが推量される。近来仄聞するところでは、藤原北家には早くから王子が潜入したため、藤原北家の中の数家は古くから既に北朝ではないという。
●南朝系の数理・幾何系シャーマンの血統が藤原北家に入った一証は、藤原北家閑院流から出た勧修寺流坊城家にその素質が潜むことであるが、これを世上に示したのが建築設計家となった萬長であった。因みに、現在の坊城家当主俊成も東大卒の工学博士で建築史学者である。
 堤代長の四代孫の哲長は孝明天皇の実質的侍従長であったが画才に恵まれ、泉涌寺所蔵の孝明天皇肖像を描いたことが伝わっている。これも勧修寺系の数理・幾何系シャーマンの一端が顕れたものと観て善いであろう。
 慶応三年一〇月二四日に慶喜が提出した将軍職の辞表は、朝廷での諸侯公議で決裁されることとなり、これと並行して国事掛近衛忠房らが一一月一二日に「大政一途綱紀確立の策問」と「太政官八省以下の再興の議」を奏上すると、直ちに採納され、翌日には徳川慶喜および在京の諸侯にこれに対する策問が下された。同一九日、その策問に答えた慶喜が「朝綱の基本は諸侯の上洛を待ち、公議を尽して之を立てん」ことを請うたので、これを承けて慶応四年初頭に新政府の三職人事が具体的に決まる。
 新政府の揺籃期のこととて政府職制と高官人事が激しく揺れ動く中で、慶応四年二月二〇日に発令された新政府人事において、正三位右京大夫堤哲長は参与兼制度事務局権輔を命じられた。当時の各局は後に省となるが、権輔はその次官として後の卿・大臣に準ずる地位である。
 したがって、先帝側近の哲長が、本来なら新天皇のお目通りさえ難しい立場であるにも関わらず、三条実美の驥尾に付した数多の尊攘派公家を差し置いて新政府の重職に抜擢されたのは、全く不可解な人事であった。
 堤哲長の公家家格は「名家」だったが、家禄三〇石三人扶持という最下級で、しかも本人は先帝側近の公武合体派だったから、決して維新功労者の類いではない。つまり哲長の参与人事は堀川御所のウラ天皇の意を汲んだものと看るよりほかはないのである。
 しかも前号で述べたように、慶応三年一二月九日になされた王政復古の告諭に伴い、将軍慶喜はもちろん、会津侯・桑名侯らの幕府関係者は固より、朝彦親王以下の公武合体派公家が朝参停止などの処分を受ける。その中に、『明治史要』は哲長の名を欠くが、『会津戊辰戦史』には二七人の中に堤哲長の名を挙げているところを見ると、堤哲長が一旦朝参停止の処分を受けたことは間違いない。その哲長が朝参停止を取り消され、逆に新政府の高官を拝命したのは、ウラ天皇にお仕えするための手順だったようである。ウラ天皇御一家に仕える女官及び舎人・命婦らの奉公人・雑掌が少なからずいた堀川御所でも、ウラ天皇に日常仕える「ウラ侍従」を必要とするところから、側近公家の中から抜擢してウラ侍従を命じた筈で、その名前は未詳であるが、謹慎の名目で京都に残り堀川御所に仕えたものと考えられる。(つづく)