洞察索引  

                      

 Ⅰ伏見宮と散所商業網 10 京都皇統代と加勢舎人
           (世界戦略情報「みち」平成26年(2674)2月15日第398号)

●慶応三年一二月九日に発せられた王政復古の告諭に伴い、将軍慶喜を筆頭に会津侯、桑名侯ら幕府首脳は固より、朝彦親王以下の公武合体派が朝参停止などの処分を受けた。
 その処分者として『明治史要』には名を欠く堤哲長を、『会津戊辰戦史』が挙げていることに注目した史家はいないようであるが、後者の性格に照らすと、堤哲長がこの日に朝参停止ないし謹慎の処分を受けたことはまず間違いない。王政復古に際し堤哲長に一旦下されたこの処分が、松ヶ崎萬長の堂上家創立に関する孝明天皇の遺詔と密接に関連していると察せられるから、その所以を以下で究明していく。
 まず慶応二年末に天然痘で急逝した(とされる)孝明天皇が、「堤哲長の次男萬長を堂上に班するよう」にとの遺詔を残していたこと自体、先帝最期の御病状に照らすと奇異に感じられる。遺詔の理由も判然としないため史家の憶測を呼び、「萬長は孝明の隠し子であった」とする憶説さえあるが、まず下衆の勘繰りというべく、公金で養われる学校史家が、揃いもそろってこのような井戸端会議的な史実探究しかできないのは、情けないというしかない。
 孝明天皇が「崩御」された慶応二年一二月二五日から半月後の正月九日に長州藩奇兵隊士大室寅之祐が践祚して新天皇になられるが、新朝廷は新方針を出さないまま一〇ヶ月余りを経過して大政奉還を受けることとなった。国事御用掛中山忠能が『中山忠能日記』慶応三年七月一九日条に、『寄兵隊ノ天皇 来正月上中旬之内、御元服御治定之事。右仰せ出られ候』と記した真意は、拙著『国際ウラ天皇と数理系シャーマン』に詳述した通りで、「仰せ出られ」た主体は正二位前大納言中山忠能が敬語を用いなければならぬ貴人の範囲に限られる。教科書史学では摂家・親王と解するほかないようだが、堀川御所に居られた孝明先帝と断言してよい。
 慶応三年一一月一五日に慶喜から大政奉還を受けた朝廷が、孝明から勅勘を受けたままの公家衆を宥免したのが一二月八日で、翌日には孝明側近に対して朝参停止ないし謹慎の処分を下した。この朝廷人事が奇兵隊天皇の践祚後一〇ヶ月も経ってから行なわれたのは、その機会を待っていたと観るほかはない。
 この一〇ヶ月間、六条堀川本圀寺境内のウラ天皇御所では、皇室資産をウラ天皇の管理下に移す分と奇兵隊天皇に引き渡す分とに仕分けしており、その作業に当たったのが、孝明の義兄朝彦親王と孝明朝廷の実質侍従長堤哲長であった。この間、朝命に逆らった長州藩主毛利侯父子、八月十八日の政変で長州へ落ち長州征伐に際して大宰府に避難した三条実美ら公家、和宮降嫁に関与したため親幕派として弾劾された岩倉具視らいわゆる四奸両嬪、及び関白九条尚忠らは、孝明の「崩御」後も赦免されなかったが、これは服喪の意味でなく、目立つような動きを慎みながら機会を待っていたものと思われる。待っていたその機会とは大政奉還ではなく、ウラ天皇の許可と観るのが至当であろう。
●因みに昨年の秋、慶応四年四月の哲長薨去の真否を疑った私が京都皇統代に問い合わせたところ、直ちに加勢舎人から「哲長は堀川御所の資産管理を命ぜられた」との教示を得た。つまり哲長が、政府高官の地位を棄てて薨去を装ったのは、今後ウラ天皇の莫大なファンドの管理に専心するためだったのである。
 当時、朝廷を仕切っていた中山・正親町三条・中御門の公卿トリオが哲長次男萬長に新堂上松ヶ崎家を興させるとの遺詔を何時でも出せたにも拘わらず、王政復古の日まで出し遅れていた理由は幾つかあるとしても、そもそも哲長の偽装薨去を前提としたこの遺詔は、偽装薨去が方針として確定するまでは、出すべきものではなかったのである。しかしながら、先帝遺詔を今上の側近らが喜ばないのは当然で、時間の経過とともに実行に移し難くなるのが道理である。
 孝明最側近堤哲長は『会津戊辰戦史』がいうように「まさしく新政を喜ばざる疑いある」者と看做され、一二月九日の朝参禁止公家のリストに加えられたのは当然で、『会津戊辰戦史』の処分リストに堤哲長の名前があることは納得でき、『明治史要』にないことがむしろ不審である。
 その『明治史要』慶応四年正月一七日条は末尾近くに、「十六日〇九条道孝以下十九人ノ朝参ヲ許ス」と記す。一二月九日の朝参停止等の処分から一カ月余り経ったこの日、公卿一九人が朝参を許されたが、九条道孝の名を挙げ、それ以下の個人名を省略する。
 しかし哲長の赦免はこの日ではなく、処分の直後に処分そのものが取り消されたので、後年に『明治史要』を編纂した際、処分が最初からなかったと看做して抹消したのであろう。ところが、山川健次郎の『会津戊辰戦史』は、正確を求めて写本によらず原資料を渉猟したため、『明治史要』では無視した哲長の処分を、原資料から拾ってしまったものと、推察される。
●慶応四年の初頭に新政府の三職の人事が具体的に決まる。新政府の揺籃期のこととて政府職制と高官人事が揺れ動く中で、慶応四年二月二〇日に発令された新政府人事で、正三位右兵衛頭堤哲長は参与兼制度事務局権輔を命じられた。
 当時の各局は後の各省に当たり、権輔はその次官として後の卿・大臣に準ずる地位であるから、先帝最側近のため本来なら新天皇のお目通りさえ難しい堤哲長が、三条実美の驥尾に付した数多の尊攘派公家を差し置いて新政府の重職に抜擢されたのは、全く不可解な人事であった。堤家は公家の家格は「名家」でも、家禄は三〇石三人扶持の最下級で、しかも本人は決して維新功労者ではない。つまり哲長の参与人事はウラ天皇の意を汲んだもの、と看るよりほかはないのである。
 新政府の高官を拝命した堤哲長は、その三ヶ月後の閏四月二一日の制度改正を機に参与兼制度事務局の官職を辞し、一年後の四月四日に急死する。むろん本当に死んだのではなく、ウラ天皇になった先帝孝明に仕えるため薨去を偽装して姿を晦ましたのである。
 堀川御所には、ウラ天皇ご一家に仕える女官および舎人、命婦らの奉公人、雑掌がいたが、それとは別にウラ天皇に日常お仕えする「ウラ侍従」を必要としたから、孝明は側近公家の中から数人を抜擢してウラ侍従を命じた筈である。その名前が今も分らない彼らは、表向きは謹慎などの名目で東上せずに京都に居残り、堀川御所に仕えたものと考えられる。
 偽装薨去後の哲長は「ウラ侍従」として堀川御所に常駐するのでなく、ウラ天皇と朝彦親王の特命を帯びて、専ら外界で活動していたと考えられるが、その根拠は「周蔵手記」の記載である。周蔵は、祖父の哲長が妾のギンヅルと医者の真似事をして世を渡ったと何度も書いているが、幕末の哲長にそんな暇はない。これは、偽装薨去をした後のことと見て間違いあるまい。
 したがって、慶応四年二月に哲長を政府重職に就けた目的が、新政府内での何らかの活動をさせるためか、俸給支給のための方便か、それとも堤家に箔を付けるためなのかは未詳であるが、ともかく「堀川御所」からの特命による抜擢と解するしかない。
 この間、堀川御所の意思を哲長に伝えていたのは、朝参停止をうまく利用した朝彦親王か、勧修寺で諜報組織を動かしていた晃親王と考えられる。晃親王は京都市中の料亭・御茶屋の女将のネットワークを作っていたと言われるから、例の龍馬が殺された近江屋井口新助などもその一端と思われる。
●公式には明治二年四月に薨去したとされる堤哲長が、その後も生きていた事を推測させるのが、哲長の孫の吉薗周蔵が遺した手記である。拙著を読まれた読者には既にお判りの事情により、「吉薗周蔵手記」を平成八年以来分析・解読してきた私は、その背景を尋ねて幕末維新の調査に入った。その後研究が進むにつれて、哲長の薨去が偽装だったのではないかとの疑いを抱き始めたが、今日の段階に達してそれが確信に移行した。
 偽装薨去後の哲長は妾の吉薗ギンヅルを表に立てて活動していたが、すでに死んだはずの哲長を名乗らず、最初の妾だった町医者の娘で丹波穴太村のアヤタチ上田家の血を引く渡辺ウメノから学んだ伝承医術を用いる町医者としての触れ込みで、ギンヅルと携えて、日向あたりを彷徨していたらしい。
 そんな事情を正確に知らない孫の周蔵が周辺からの仄聞に基づいて解釈した一端を手記に記録していた訳である。これで、「周蔵手記」に横たわっていた深い謎がほとんど解けた。
 ギンヅルから甥の上原勇作を託された陸軍薩摩閥の高島鞆之助と野津道貫が、大学南校にいた勇作の進路を変更して陸軍士官学校へ転校させ、陸軍工兵将校にしてフランスに留学させた経緯はもとより、留学先のフランスで勇作をアルザスのポンピドー家の女と結ばせた理由が、これによって完全に説明できたのである。
 アルザスのポンピドー家が伏見殿欧州ネットワークの一員と判ったことによって、「周蔵手記」のあらゆる謎が説明できるし、後年上原がポンピドー家の女性に産ませた混血娘が来日して甘粕正彦の隠し妻となった経緯も容易に理解できる。
 因みに、「京都皇統代」とは私の造語で、ウラ天皇の系統を今に継いだ勢力を漠然と指すものである。堀川御所でウラ天皇になった孝明を継いだのは睦仁親王(ホンモノの方)であったが、その後を継いだのが、睦仁親王の子の堀川辰吉郎である。この系統を私が「京都皇統」と呼ぶのは、大室寅之祐すなわち明治天皇の東京皇室との混同を避けるために外ならない。
 堀川辰吉郎から後の「京都皇統」について述べる段階には至っていないが、あえて推察を申せば、秩父宮・高松宮が分担されたように思う。
 現在、京都皇統の意向にしたがって國體維持に尽力している勢力のことは「京都皇統代」と称するしかないが、その末端で現に活動しているスタッフと現実に接触している私は、彼らを「加勢舎人」と呼ぶことにしている。
(つづく)