洞察索引  

                      

 Ⅰ伏見宮と散所商業網 11 「エエデナイカ踊」の実行部隊
             (世界戦略情報「みち」平成26年(2674)3月1日第399号)

●ウラ天皇の存在を証明する状況証拠として、前号で堤哲長と松ヶ崎萬長父子の幕末維新における動向を論じたが、これだけでむろん完全な証明と言えない。そこで本号では追加証拠として、大政奉還に合わせて各所で発生し、王政復古と同時にピタリと終った「お札降り」を企画・実行したのが伏見殿ネットワークであった史実を提出する。
 慶応三年(一八六七)八月ころから一二月にかけて、東海地方から近畿・山陽・四国の各所で神社寺院のお札が空から降りる奇瑞があった。渋沢栄一『徳川慶喜公伝』は、次のように記している。

 京都にては十月の末より十二月に掛けて神符降下の奇瑞あり。伊勢大神宮を始め諸社の神符、空中より飛降して民家に落つ、神符の降りたる家にては、壇を設け酒肴を供して之を祭り、知ると知らざるを問はず、皆其家に至りて、するを常とし、称して吉祥と為せり。

『岩倉公実記』には慶応三年の「八月下旬に始まり十二月九日王政復古発令の日に至て止む」とある「お札降り」を、『慶喜公伝』が「京都にては十月の末に始まり」としているのは、東海地方に発生してから二ヶ月掛かって洛南の伏見・八幡あたりに移ってきたからである。
 各社の神札が天から降ったのはむろん誰かが撒いたので、東海から近畿にかけて広範囲にわたる集団的・組織的な行動として事件性が濃厚にも拘わらず、実行者は特定されず事件はいまだに解明されていない。
 神符が降った家では神棚を設け、酒と御馳走を供えて神符を祀り、知人はもとより通行人までも上がり込んで飲食するのが当たり前で、主客共に「めでたいめでたい」と騒いだ。飲食だけではなく、男女とも異様な服装で街頭に出て、「エエデナイカ」などと卑猥な唄を謳いながら遅くまで踊り狂った。
 『慶喜公伝』はその有様を下記のごとく述べる。

 後には都下の士女・老少の別なく綺羅を飾り、男は女装し、女は男装して、群を為し隊を作りて、「よいじゃないか、えいじゃないか、くさいものに紙を張れ、破れたらまた張れ、えいじゃないか、えいじゃないか」といへる謳を歌ひ、太鼓を撾ちながら狂奔・酔舞し、夜に入れば各其頭上に燈を戴き綵花を飾る。一群去れば一隊来り、街頭織るが如し。
 此風尾張付近に起りて、八幡・淀・伏見に波及し、遂に京都にも移りしなり。岩倉友山の同志は、此奇瑞の喧騒に乗じて相往来し、密々に謀議を凝らしたれば、徳川家・及会桑二藩の偵吏は曾て之を知らざりき。

「お札降り」の起源について史学界では三河国豊橋説が有力であるが、渋沢は尾張国起源を唱えている。当節盛んな「歴女」の間では、歌声などから連想して江戸中期に全国的に流行した伊勢大神宮の参拝運動「抜け参り」ないし「お蔭参り」と混同する向きも見られるが、二つはまったくの別物である。「お蔭参り」は間歇的に発生した個人行動であるのに対し、計画性が明らかな歴史的事件である「お札降り」から史家が目を逸らすのは実行犯を特定できないからであるが、あえて言えば、これを解明できないようでは、明治維新の解明などできるわけもない。
 紀州藩儒者で並高二〇石・足高二〇石の御留守居物頭格の河合豹蔵の妻小梅が点けていた『小梅日記』の慶応三年十一月十三日条を以下に略述する。

 馬次【注・馬次は和歌山城郊外の地名】の叔母方へ在京の親の方から伝えてきた手紙の中に在ったものだが、「余り不思議之事、申上候」と書いた物を持参してきた。先日、尾張名古屋に江戸の女が裸で天降り、その後、美濃国・甲斐・大和・奈良、諸所へ神々が天降り、踊る人々もでてきた。
 今般、京都では南の方から始まり神々が天降って大賑わいで、晴天でもありありと降る。天照皇大神宮の新古のお守り・お祓い・お札。同小箱入り。小判や一朱・二朱あり、小判五・六枚ずつ降った場合もある。江戸の男が祇園境内に落ちた。
 不動尊・秋葉権現・白髭明神・観音・大黒・恵比寿・八幡宮・多賀・薬師・七福神・春日明神・清正公・稲荷・愛宕のほか、金メッキの土人形がいろいろあった。
 土人形の布袋が落雷のような音を立てて落ちたが壊れず、三十キロほどの石地蔵が屋根の上に落ちても瓦一枚割れず。
 天降った家では注連縄を張って餅・酒・魚・菓子いろいろ揃え、一枚十一・二両もかかる友禅・鹿の子のを、金持ちは五・六枚も重ね着した。これに緋スゴキなども調えれば、〆て百両以上にもなる値打ちを着て踊った。

 後は省略するが、『小梅日記』が引用した手紙は尾張国発祥説に立っていて、いきなり京都から始めなかった処に企画者の深謀遠慮が窺われる。ここで、先に掲げた渋沢言の末尾部分をもう一度見てほしい。渋沢は岩倉の同志の倒幕派が謀議のため行き来する際、「エエデナイカ踊」を利用して、新選組や幕府見廻り組など公安警察の眼を逸らすことができたというのである。
 逆に考えれば、討幕派が謀議の際に、幕吏の目をごまかす目的で「エエデナイカ」騒動を仕掛けた可能性があるのだが、渋沢はそこまでは謂っていない。『小梅日記』十一月二十四日条に、伏見組与力の暗殺の記事を記している。

 ……さて新聞をみるに、伏見組与力横田某こと、当八日夜出役の途中、自分長屋門先にて此節流行の踊り装束にやつし候一両人の者、同氏の腰剣を抜き斬り付け、首級を揚げ、且つ笹に結い付け、武田街道へ捨有り之趣……。尤も、仕業人、何者にも突き留め難きことに存じ候えども、横田氏は兼々賄物を貪り候風聞之ことに付き、右等之障りと存じ奉り候。この段申し上げ候。

 小梅が読んでいた京の動向・風評を記した『京都新聞』という書き物によると、「エエデナイカ踊」の風体に変装した二人の男が、伏見組与力横田某を官舎の門前で暗殺し、打ち落としたその首を笹に結い付けて竹田街道に晒したそうである。横田与力の殺害を『京都新聞』は本人の収賄癖のせいにしているが、収賄の被害者はすなわち贈賄者で、出入り商人であるから、告訴する例はなく、まして収賄者の暗殺などはしない。第三者が義憤に駆られてやったとも考えられず、暗殺犯は公安担当の伏見組与力と対立していた倒幕派に決まっているが、それを新聞編集人が収賄のせいにしたのは、幕吏を憚って倒幕派の存在を論ずるのを避けたのである。
『小梅日記』によれば、一二月七日には和歌山城下にも「お祓い」が降り、あちこちに降ったお札を町奉行所が回収しに来るので引き渡すとのことである。最初は川舟へ落ち、一つは商業地駿河町の大福屋へ落ちた。下士が住む九家ノ丁へ落ちたお札は、門を掃く家来がそれとは知らず溝へ掃きこんだ由。ここまで書いた『小梅日記』はさらに続ける。

 水門道に一人住まいの女の鉢植えとやらへお札が落ちたのを、有難しとしたものの、蓄えもないので一枚の着物を質屋に持っていき、それで酒を整えて祝い置きて寝たところ、翌朝見れば、昨日質入れした着物はそのまま自宅にあり、そのうえ五十両もあったので大いに怪しみ、質屋へ行って仔細を述べたものの取り合ってくれず、しかし、くどく云うので蔵へ行って質物の棚を確かめると、着物はなく、カネもなくなっているので呆れたというが、その実否は知らず。
 十一日、万町(青物市場)の洲本屋に金の御幣が降ったとて祝い、酒は汲み吞み、下駄・草履ごと座敷に上って踊る由。
 十二日、昨夜洲本屋の向かいの家にも御幣降ったところ、夥しい人数が入り込み、商品のミカンや柿を勝手に奪い、店の者が委託品だと言って断っても聞かず、ヨイジャナイカ、ヨイジャナイカと踊って取り合わない由。
 桶屋町で炭を売っていた婆に観音の影降り、大いに喜んで灯明を掲げて小社を祀った処、賽銭を上げて拝みに人々が来た由。古手屋で赤い襦袢を二着持ち去ろうとするのを、止めたら、ヨイジャナイカ、ヨイジャナイカと言って一向にワヤなるも、皆喜んでいる由。小笠原の邸にも、山田の振出し売るところにも降り、粉河の長田観音へもたんと降った由。
 十三日、本町七丁目和歌屋へ御幣と大黒降り、汲み吞みして踊る声がしたので、お上よりお叱りがあった。髪結いの女房が踊りいるところへ行った役人が叱ったところ、「女房の云うには、左様仰せられずに踊りたまえとて、手を取り候由」にて、とうとう番屋へ半時ほど拘留された由。

 学者の家に生まれた小梅は好奇心に富むが、かなりのインテリ女性で、明らかにウソと判る噂を無批判に書くことはせず、「真否は知らず」と注記している。お札が降ったという万町や本町・水門筋・桶屋町は、和歌山城下中心部の町人居住区域で、小梅の河合豹蔵宅があった九家ノ丁から二キロも離れおらず、全くのウソは通用しない。
 その九家ノ丁ですら、(証拠物のお札がなく、話だけのようだが)お札が降ったというから、まんざら流言だけでなく、ネタになる事態を何者かが現実に起こしていたと観るべきである。それもさることながら、「お札降り」の描写が具体的で、噂話にも明確な物語性があることから、噂話の筋書きを作り、且つ神符を印刷した司令塔が存在したことは間違いない。
 諸方で神符を撒いて歩く際に、最も都合の良いのは雲水姿である。雲水姿の数人が隊をなし実在する大寺の身分証明を携えていたならば、たとい身体改めで神符が見つかっても言い抜けはできる。口コミで噂を流し歩き、通行人を装って「お札降り」の家に上り込んで飲み食いを主導し、踊りの音頭を取った実行部隊の遣り口は、明らかにシノビの手口である。
 つまり、「エエデナイカ踊」の実行部隊は某大寺の末寺ネットワークを拠点とする雲水グループで、これを補助したのが「犬」すなわち行商風のシノビであった。「犬」を手引きし匿ったりしたのは、予て和歌山城下の内外に根を張っていた「草」である。
 その某大寺の正体とは? 紙幅尽きたので、以下は次号にて。(つづく)