洞察索引  

                      

 Ⅰ伏見宮と散所商業網 12 伏見殿諜報網司令部勧修寺
            (世界戦略情報「みち」平成26年(2674)3月15日第400号)

●德川吉宗が紀州藩主を継いだ宝永二(一七〇五)年から八年後の正徳三(一七一三)年、伏見殿邦永親王の第四王子栄懐親王が勧修寺(かしゅうじ)に入り、三十世尊孝入道親王になった。尊孝の叔母は宝永三(一七〇六)年に徳川吉宗に嫁し四年後に亡くなったが、その縁で吉宗は紀伊国内のおおよそ百ヶ寺を勧修寺の末寺(真言宗山階派)に変えさせた。和歌山城近郊の有名な紀三井寺が真言宗山階派となったのも、この時と思われる。
 試みに紀州藩の史料を集めた堀内信『南紀徳川史』を見ると、紀ノ川筋の古義真言宗寺院は、高野山領内は全部高野山派なのは当然ながら、その他はほとんど山階派(勧修寺派)で、ことに大きな神社の神宮寺は悉く勧修寺末寺で、他には御室派(仁和寺派)が多少あるだけである。
 そもそも吉宗は徳川氏の血統ではなく、ウラ天皇伏見殿が紀州家に入れた伏見宮系の簿外王子であるから、紀ノ川筋一帯の真言密教寺院を勧修寺派に転宗させたのは、亡夫人の甥を間接的に支援するがごとき個人的な情実でなく、政治上の必要と見なければならない。これに限らず、江戸時代に政権が行なった宗教関係の措置には、すべて重要な政治的意味と目的があった。
 幕末当時、勧修寺傘下の情報網を支配していた三二世門跡の済範入道親王は、文化一三(一八一六)年に生まれた伏見殿邦家親王(禅楽)の長男で、魔王と呼ばれた弟の中川宮朝彦親王よりも八歳年上であった。生誕の翌年に勧修寺に入り、文政七(一八二四)年に出家したが、天保一二(一八四〇)年、あろうことか二歳年下の妹(実質的には叔母)の隆子女王と出奔するという不行跡を犯したため、翌年には勧修寺門跡の地位を剥奪され、東寺での蟄居を命じられたが、むろんこれにはウラ事情がある。
 済範親王は安政五(一八五八)年に山科村への帰住を許されるが、勧修寺の境内でなく村内の小庵に幽居したとされる。文久三(一八六三)年に山科勧修寺の近傍の一庵に住んでいた済範親王を訪問してきた薩摩藩士高崎正風に、親王が示したのが自説の時務策であった。高崎がこれを主君島津久光に見せたところ、感嘆した久光は、済範親王を新親王家へ取立てすることを発議し、済範の還俗の勅許を周旋するよう、魔王と近衛家に要請したが、孝明天皇は「還俗は容易ならざることなりとて容易に採用せられず」という有様だった。焦った久光は止むなく慶喜に稟議した、と渋沢栄一の『徳川慶喜公伝』にある。
 すべてがウラ天皇(邦家親王)が立てた「堀川政略」に沿った八百長で、文久四(一八六四)年一月一七日、済範親王は予定通り、島津・越前・宇和島・一橋の四侯建議により還俗を許され、山階宮晃親王と改称して国事御用掛を拝命した。
 天保一三年の蟄居以来二〇年余もの間、済範親王が世間から隠れていたのは、もとより「堀川政略」の一環で、蟄居を装いながら統括していた伏見殿ネットワークの諜報本部が勧修寺にあったのである。
 ところが、元治元年に「堀川政略」が幕末工程に入ると、禅楽も現役復帰して邦家親王となったが、大政復古を現実化するため、朝廷側でも佐幕派の表看板を固めてしまった弟の魔王と役者交替をさせるため、済範親王を還俗させて朝廷政治の主役としたのであった。
 因みに、浅見雅男氏の著書『伏見宮』に、『山階宮三代』から引用したという話がある。

 勧修寺に出入りしていた国分文友という画師が、旧知の薩摩藩士井上石見に、勧修寺にいる親王の学問・見識・海外知識の素養を讃えたので、井上が勧修寺に出向き親王と会ったところ、たしかに国分の言う通りで、今度は在京の薩摩藩士高崎正風が面会すると、親王は自作の国防策七十ヶ条を示したのみならず、西洋絵図まで見せたので、すっかり感心した高崎がこれを久光に報告した。

 これで直感するのは、勧修寺で二〇年間逼塞していた済範親王にベルギーの伏見殿欧州本部から海外情報が常に届けられていたことで、勧修寺で伏見殿ネットワークの諜報本部を統括していた済範親王は、公武合体や尊皇攘夷などの国内政治状況も手に取るように見えていたのである。
 伏見殿諜報ネットワークに属する極楽寺シノビ衆の司令部は当初は真言律宗本山の大和西大寺であったが、大寺院のこのような役割は数世紀おきに交代すると聞く。そこで、極楽寺衆の司令部が西大寺から勧修寺に交替した時期と、尊孝親王の勧修寺入りの前後関係は未詳だが、吉宗が紀伊国伊都・那賀・名草の三郡、いわゆる紀ノ川筋の古義密教寺院を一斉に高野山系から勧修寺系に変えさせた時期と、伏見殿諜報ネットワークの下部機関の拠点を移した時期とは連動すると推測される。
 因みに、紀州藩勘定奉行で熊野三山寄付金貸付所有司総括を兼ねた伊達宗広(自得居士)は、「堀川政略」との関係が極めて深いが、嘉永五(一八五二)年一二月一二日付で、紀州藩附家老の新宮城主水野土佐守忠央から隠居を命ぜられ、田辺藩預けを言い渡される。並高三〇〇石を相続して伊達家当主になった養子の五郎宗興も、一ヶ月後の嘉永六年正月一三日に改易されて城下十里払いとなり、弟で後の伯爵陸奥宗光ら一家を率いて遷ったのが、高野山麓の伊都郡荘村であった。
 紀ノ川上流の南岸にあった入郷村は藩領といえども周囲は高野山領で、しかも一帯は真言宗山科勧修寺の末寺ばかりであった。この地はもと南朝忠臣海堀氏の領地で、人口六四〇〇人の九度山町で今でも最も多い姓が海堀氏という。海堀姓について昭和三二年四月から十二月まで「九度山町公民館報」に掲載された郷土史家坂本義一氏の文を九度山町入郷の海堀良夫氏がまとめたものや、郷土史家中居房次郎氏の意見などがインターネット上で公開されている。
 それによると海堀氏の家祖は三谷村の丹生酒殿神社神官丹生氏の分流の家から出た従四位上榊山式部で、持統四(六九〇)年ころに生れ、聖武天皇に奉随して式部省の最高役職に任じ、平城京の宮殿や大仏造立(開始七四七年)に携わったと伝わる。
 従四位上なら官位相当は式部大輔と考えられるが、学問・儀礼を本務とする式部省の職掌からすると、建設に携わったとされることに違和感がある。妻の永豊姫が淡路廃帝、すなわち淳仁天皇の異母妹で舎人親王の女婿の榊山式部は、七六四年に淡路に流された義兄の淳仁天皇に随従して淡路島に渡り、福良と須本(洲本)の両御殿を造営したほか、淳仁天皇の勅命で須本の砂丘に回船のために築港し、その功績により、淳仁先帝から龍頭の太刀(天皇佩用の刀)及び硯箱等を賜り、正四位に叙されて「海手」の姓を賜ったとのことである。 七六五年に崩御された淳仁天皇の七回忌(七七一年)を済ませた榊山式部が、八二歳にして故郷入郷村に戻ったという海堀氏伝承には、淡路廃帝の事績などに関して俄かに首肯しがたい点があるものの、かかる古伝承には概して公式史書には出せなかった史実が含まれているので安易に廃却してはならず、宜しく尊重して吟味すべきものと思う。
 郷土史家の中居房次郎氏によれば、南北朝時代に楠正成の南朝軍に就き、吉野に参内して後醍醐天皇のために吉野川筋に堤防を築き、「一目千本」の坂下まで掘り込んで入海の姿に変え、淡路の洲本より貝殻を拾い集めて運び、堀江一面に敷き詰め、その外廻りに桜の木を植えて珍しい風景を作り出したのは海手氏で、この堀の完成の功として後醍醐天皇より海堀の姓を勅許されたという。
 豊臣秀吉の紀州征伐で高野山領が確定された際に、高野山領から除外された入郷村は、徳川幕府が高野山領二万一〇〇〇石を画定した時にも除外され、維新に至るまで紀州藩領であった。これらを総合して中居氏は、嵯峨天皇が紀ノ川南岸の地に高野山領を設定した時、入郷村だけは海手氏(海堀氏)の知行所として除外されたと想像し、このゆえに九度山から入郷にかけて海堀氏が多く散在すると述べている。
 因みに、竈のうち後部に位置する煙の排出部を「クド」と称し、「竈処」と書く。九度山は明らかに山であって、領主竈氏の名称も、目下呼ばれるように「カマド」でなく、本来は「クド」であろう。
 丹生酒殿神社の裏山が榊山で、ここに丹生津姫が天下ったとされており、旧(もと)は三谷村の丹生酒殿神社が里宮で、天野荘の丹生津姫神社が奥宮だったと観るべきである。酒殿の名は丹生津姫が酒を醸したところから出た称で、したがって丹生津姫は、水銀朱ばかりでなく酒造の女神様でもあり、現在も全国の杜氏のカシラは丹生氏と聞く。
 清酒を本邦へもたらした大坂の財閥鴻池氏は、本姓が山中氏で山中鹿之助の子孫として知られるが、鹿之助の本姓佐々木系尼子氏の流祖は丹生氏から佐々木氏に入った佐々木道誉と仄聞するから、丹生→佐々木→尼子→山中→鴻池と連綿と繋がる同族のようである。因みに紀州藩の国家老として伊達宗広を抜擢した山中筑後守もその一族で、和歌山市内久昌寺に在るその墓を見るに、家紋は「〇(まる)に橘」である。
 九度山の領主海堀氏が土木建設ことに水利工事に長じていたことは慥(たし)かで、大仏殿はともかくとして淡路島における築港工事と吉野川の掘削・護岸事業は今日に言うマリコンの分野で、後醍醐による賜姓の「海堀」もそれを端的に物語るが、その数理幾何系シャーマンの因子は、榊山式部が属する丹生族に存在したのか、それとも外部から入ったのか未詳である。
 偽装死を以て鎌倉を脱出した大塔宮護良親王は房州白浜に潜伏した後に極楽寺ネットワークを経て西大寺に入り、西大寺基金で各地に港湾を建設したが、その設計と工事に当ったのが土師氏集団だった。スーパー・ゼネコン土師氏の構成員は土師宿禰だけでなく、測量・設計屋も含むから、海堀氏をその一員と見て間違いないであろう。九度山荘が古来、安曇流真田氏の隠れ領地であった事は間違いなく、吉宗がこの地に勧修寺系勢力を置いたのも、それが一因だった。(つづく)