洞察索引  

                      

 Ⅰ伏見宮と散所商業網 13 山科郷士考
      (世界戦略情報「みち」平成26年(2674)4月1日第401号)

●建武元年(一三三四)の新政に当たり、南北両統の首脳による極秘の合意として、次の事を定めた。

①今後、「万世一系の皇統」を大塔宮護良親王の子孫に限ることとする
②朝廷天皇の皇統が継嗣を欠いた時に備え、万世一系の皇統の根幹として永世親王家を設ける
③朝廷天皇を支えて國體を護持する國體天皇を置き、永世親王が之に当たる
④國體天皇が裏の重要国事に当たり、且つ海外に進出して国際事項を司る

 これを実行に移すために、まず行なったことは、護良親王が紀伊国那賀郡調月荘の豪族橘姓井口左近の娘に産ませた王子を北朝光厳上皇の第一皇子に入れて益仁(興仁)としたことである。土師氏系菅原流の柳生氏の所領笠置山で、元弘元年(一三三一)に挙兵した後醍醐天皇と護良親王は、鎌倉幕府軍のために出鼻を挫かれ、後醍醐天皇は捕えられて隠岐島へ流された。
 この折、護良親王が紀州路へ落ちたのは偶然でなく、亡命先は当初から中氏の領地那賀郡調月荘と決まっていて同地の領主菅原流中氏に同族の柳生氏が渡りを付けていたが、大塔宮の隠れ家も同地の豪族橘姓井口左近の館が予定されていた。
 菅原氏と護良親王を結んだのは後醍醐天皇護持僧の西大寺流真言律宗の首頭文観房で、背景には行基菩薩以来の土師氏と真言律宗の関係があるが、泉州岸ノ和田に勃興した橘姓和田氏の楠木正成と後醍醐天皇を結んだのも文観房であった。
 この折、調月から遠からぬ名草郡大野荘三上村の大春日明神の宮座を勤めていた武士団大野十番頭が護良方で挙兵することも決まっていた。大野十番頭は大春日明神の奥ノ院の幡川禅林寺を通じて文観房から大塔宮の守護を指示されていたのである。
 岩清水八幡別当の善法寺紀通清の配下の文芸工房が作った『太平記』が、笠置を落ちた大塔宮主従が修験に身をやつし、味方を求めて紀州路をあてもなく彷徨う様を書いたため、これを信じた衆生は落魄の貴公子に涙するが、そもそも不意打ちを食らった場合はともかく、落ち行く先も決めないで挙兵する愚行なぞ常識的にも有り得ないのに、こんな小説を史実として追認する史家しかいない日本史学界はまことに情けない。
『太平記』には、元弘元年秋に熊野路に入った大塔宮一行が切目王子に着いたとあるが、その頃には親王は河内の楠木正成との連絡に便宜のある調月荘にいて、やがて鎌倉方との主戦場たるべき河内・和泉の形勢を窺っていた筈で、後背地の熊野は親王の部下が親王に扮して工作していたと見るべきである。
 建武元年(一三三四)六月に調月荘の井口左近館で誕生された益仁親王の生命がこの世に宿ったのは元弘二年九月の頃で、場所はむろん調月荘と観るしかない。ところが、『太平記』に拠れば、足利尊氏と反目した大塔宮は、その頃には大和・河内の国境に近い信貴山に陣営を構えた、とあるから、念のために現地へ逝き、朝護孫子寺で尋ねたところ、「信貴山城が出来たのは松永弾正の時代で、それまでは構築物がなかった」との答えであった。「太平記にはそのように述べているらしいが」と追究したら、「当方も繰り返し読んでいるが、注目していない。楠木正成が野営した事はあるが、大塔宮のことは寺伝にない」とのことであった。切目王子の霊夢と謂い、信貴山野営といい、『太平記』が虚偽を語っているのは明らかで呀るが、目的はむろん真相の隠蔽である。何を隠蔽したかというと、日本史最大秘密たる南北朝強制統合の一事である。
 ともかく護良の王子益仁親王が北朝の崇光天皇となり、その皇子栄仁親王は皇位に即かず初代伏見殿となる。栄仁親王の王子の伏見殿貞成親王が永世親王伏見殿となり、その第一王子彦仁親王が後花園天皇で、以後の皇室の高祖となり、第二王子貞常王が伏見殿を継ぎ國體天皇となった。永世親王はその後四家に増えたが、國體天皇にはずっと伏見殿が就いていた。
 後花園系が連綿と続いた朝廷天皇は、江戸中期の後桃園天皇に至って継嗣が絶えたが、これを機に永世親王閑院宮の皇子師仁親王が朝廷天皇を継いで光格天皇となり、國體天皇伏見殿は以後、国際事項に特化することとなった。海外事項に専念する為に国事負担を減らしたのである。
 閑院宮系が入った朝廷天皇は光格以後仁孝・孝明と続いたが、孝明は國體天皇となるために崩御を偽装して睦仁皇太子とともに堀川御所へ入り、次代の朝廷天皇は、周防国田布施の地で佐藤甚兵衛の保護下に在った長州藩奇兵隊士大室寅之祐が皇太子睦仁親王と入れ替わって即き、睦仁皇太子の祖父中山忠能から奇兵隊天皇と呼ばれた。大室寅之祐は崇光天皇の直系子孫ではなく、崇光の実弟井口左近(代々称す)の子孫でもないが、護良親王の第一王子興良親王の末裔として皇位継承要件を満たしていたのである。
 室町時代に海外に進出した伏見殿は、ベルギーとオランダを本拠として欧州各地でしだいに発展し、欧州王室連合に参加して裏面から世界政治に関与しながら、今日に至った。以上の秘史を念頭に置かなければ、日本の真の歴史は絶対に判らないのである。
 そこで、永世親王伏見殿が國體天皇として存在してきたことを証明する状況証拠として、大政奉還に合わせて各所で発生し、王政復古と同時にピタリと終った「お札降り」または「エエでないか踊り」を企画・実行したのが伏見殿ネットワークであった史実をこれまで提出してきたが、「お札降り」の今はまだ「雲水姿」としか実態が分からない実行集団を、仮に勧修寺衆と呼んだのである。
 勧修寺の所在する勧修寺村は山科郷の一部である。そこで勧修寺衆との関係がよくわからないが、以下は、鏡山次郎氏のHPに拠りながら、時に私見を交えて、山科郷士を見ていくこととする。
 勧修寺の所在する山科郷の地は古来禁裏御料地で山科郷士と呼ばれる半農武士が在住し,山科総触頭の比留田権藤太のもとに、御所の警備に当たっていた。幕末に百六十名の山科郷士が、比留田権藤太を隊長とする「山科隊」を結成し、元治元年(一八六四)の禁門の変では、三条・長州方として天皇遷幸の準備に当たり、変後には長州藩士隠匿の嫌疑で捜索を受けたが、三年半後の戊辰役では、岩倉具視の次男具定を総督とし三男具經を副総督とする東山道鎮撫総督府軍に参加し、勝ち組の一員となった。
 山科郷は大半が総高六千石の禁裏御料でこれを十七ヵ村と称し、勧修寺村などの四か村は、勧修寺や毘沙門堂・醍醐寺・随心院領などの寺領で、領主の違いから「山科十七ヵ村」に入れていない。一円的支配だった山科十七ヵ村は地縁的結合と自治的傾向が強く、幕府の京都代官も比留田・土橋の両触頭に用向きを言い渡すだけで、郷内に深く干渉することはなかった。
 山科郷士は幕藩体制下では農民として位置づけられたが、「禁裏御所警固」等の諸役を負担して帯刀を許され、村内において独自の地位を保っていたのは、あたかも紀州藩における根来者に等しい。半農半武を表看板とした山科郷士の負担する公務の柱は「禁裏御所警固」で、事変に際しては軍事行動に加わった。これと似て半農半武を表看板とした紀州根来者は、当初藩から要請された城門警護を断ったが、民間保有の鉄砲の管理と隠密行動に任じ、有事の軍事参加は当然とされていた。
別名を「百」と呼ばれた紀州根来者は実数百十人であったが、「山科郷村々御家人郷士名前帳」などによれば、山科郷士の総数は百六十名から百八十名であった。別名が「在中帯刀ノ者」と呼ばれた紀州根来者とは異なり、帯刀者は郷士のうち一部であった。「常ニ帯刀仕候儀、百姓之儀ニ御座侯得ハ、頭分之外無ニ御座候」と「名前帳」に記されるように、郷土身分でも「頭分」の者のみが常帯刀を許されていたのである。
 山科郷士の御所への出仕は、御所の年中行事の警固役で、その他の役割を担って参勤した。その代表的なものは宝永の大火、天明の団栗焼け、禁門の変における「どんと焼け」など京都の大火に際する御所警固が多かった。幕末期においては天保八年の大塩平八郎の乱をはじめ、井伊大老暗殺の後には、御所九門のうち六門の警固に出仕した。
 鏡山次郎氏は、下記のように云う。

 こうした中、京洛では、文政十三年=天保元年に「おかげ参り」踊りが流行し、天保十年には「豊年踊り」が京都市内を乱舞した。こうした民衆の踊りは「政治不信」を体現したもので、「明治維新」前夜の「ええじゃないか」の狂乱の先駆をなすものであった。慶応三年、下京区四条大宮の高木長治郎は日記に「大神宮御札が下ノ町菱殿裏に下る」と記した。以来毎日のように(中略)様々な御札が京都市内に「天降り」し、それを中心に民衆はうかれて「ええじゃないか」踊りに酔った。しかし、その背景には、江戸時代末期の人々の心の動揺と、戦争への不安がうずまいていたのである。

 勧修寺領であるために皇室御料の「山科十七ヵ村」の外側に位置してはいたが、それゆえに排他性と特殊性が殊更に強かった勧修寺村には、伏見殿から入って徳川吉宗と関係が深かった尊孝入道親王が勧修寺に入った正徳三年(一七一三)か、それとも次の門跡で還俗して十八代伏見殿邦頼親王となる寛宝入道親王の時代か、精確な起源は判らないが、いわば「勧修寺郷士」ともいうべき忍者衆がいて、ウラ天皇伏見殿に参勤していたものと私は推察する。
 幕末慶応四年の「お札降り」騒動に関わったのも、実はこれらの衆ではないかと思われるのである。というのも、「お札降り」や「エエでないか」のような大衆煽動工作は、脱藩浪士などにはとうてい無理だからだ。実行部隊は前掲の「勧修寺衆」すなわち中世の極楽寺衆の後身としても、これ全体を企画したのは、当時の日本中を探しても、勧修寺あたりにしか思い当たらないのである。(つづく)