洞察索引  

                      

 Ⅰ伏見宮と散所商業網 14 佐幕派牙城紀州和歌山城
           (世界戦略情報「みち」平成26年(2674)4月15日第402号)

●紀州藩は徳川御三家の一つで前将軍家茂公の実家でもあり、藩を挙げて佐幕派であった。当時の各藩では、藩政改革に絡んで激しい鬩ぎ合いが生じ、その際に藩士が勤王派と佐幕派に分かれて対立した例が多く見られた。紀州藩でも、急激な藩政改革を進めていた奥祐筆田中善蔵が、慶応三年一一月一二日の登城の途中、和歌山城追廻門の外で保守派に要撃されて殺害されたが、田中の藩政改革の中心は藩士の俸給削減にあり、これに猛反対した保守派も含めて、尊皇攘夷思想とは関係がない。
 江戸幕府を見限って早々と勤皇派に就いた尾張藩や越前藩と異なり、一四代将軍家茂の実家であった紀州藩は、支藩の伊予西条藩から迎えた最後の藩主徳川茂承(もちつぐ)が第二次長州征伐の御先手総督に任じたことで、名実ともに佐幕勢力の中心的存在と看做されていた。
 要するに、大政奉還当時の紀州藩には、尊王倒幕派のごときは一人もいなかったのであるが、別の事情で脱藩した伊達宗広・宗興・(陸奥)の一家が、後年になって事後的に尊王派とこじつけられているのが現状の幕末日本史なのである。
 和歌山城下は京都に近い土地柄から朝廷の動向に敏感にならざるをえず、下士の妻女であった河合小梅でさえ「京都新聞」を読んでいた。そこに「エエでないか踊り」の扮装をして、伏見与力岡本某宅に押し入り、これを殺害した記事が載っていたことは、前に述べた。
「お札降り」についていえば、これだけの大事を仕出かすには、当然それなりの組織が必要である。手口から見てシノビの仕業であるが、「流し」の仕業ではなく、企画力と実行力を備えた司令塔と、よく訓練されたうえに機密保持を十分心得たプロの実行部隊とが揃わなければ、できることではない。
 諸方でお札を撒いたり、時には仏像を屋根に投げたりしながら巷に噂を流したのは、実行隊員の「犬」の仕業であるが、「犬」も城外からいきなり来たのでは目立つから、少し前から和歌山城下に来て町外れに潜んでいたわけで、それを手引して匿う役が秘かに城下に根を張っていた「草」(定置諜者)であった。神符の印刷費だけならまだしも、小判や小粒までも降らすのでは相当の費用を要すところから、財務的な協力者もいたのであろう。
 諸方で神符を撒いて歩くとしたら最も都合の良いのは雲水姿である。藩吏としても雲水を見咎めて身体を改めることは憚られるし、雲水姿の数人が隊をなし著名大寺院の印信(いんじん)(身分証明)を携えていたならば、たとい身体改めで神符が見つかっても言い抜けができよう。一方、口コミで噂を流し歩き、通行人を装って「お札降り」の家に上り込み、飲み食いを先導して踊りの音頭を取った実行部隊の遣り口は、明らかにシノビの手口である。
 結論から言えば、「お札降り」を実行したのは特定勢力に属する諜報網で、具体的には雲水と行商姿のシノビであった。つまり、「エエでないか踊」の実行部隊であった「犬」は、雲水と行商姿の二組に分かれていたのである。
 社会に隠れた諜報網の存在は、現在でも軍事型の社会の常識であるが、当時の日本は武家社会で、幕府が各藩を監視するために諜報網を張っていたのは当然で、幕府以外にも雄藩は独自の諜報網を各地に張っていた。諜報網には定着型と回国型があり、前者は「草」と呼ばれ、地域社会に定着してコミュニテイの一員となる。後者には「紀州の猿牽き、尾張の万歳」のような遊芸型と、信州松本の「飴売り」のような行商型があり、「犬」と呼ばれていた。
 和歌山城下は固より発祥地の尾張国から始まり八幡・伏見にかけて、各地で「お札降り」を実行したのは、雲水と回国型シノビすなわち「犬」で、それを手引きしたり匿ったりしたのは、予てより都会地の内外に根を張っていた「草」だったのである。
 大和国西大寺を総本山とする極楽寺ネットワークを拠点にして、無籍の非農業民が行商の傍ら諜報に従事した中世の「極楽寺衆」の伝統が江戸時代にも引き継がれていた史実に今日の学校史学は目を背けている。その原因は、何と言っても戦後史学界に登場した俄か仕立ての「庶民史観」による洞察力の不足であるが、その根源は、実は明治維新に遡り、藩閥政府を支配した長州卒族党に対する史学者の迎合がもたらしたものなのである。
 エエでないか踊りと「お札降り」は、広範囲にわたって生じた幕末の大事件であるが、自然発生的でなく、明らかに人為的な政治工作であるにも拘わらず、その企画実行者が今もって特定されていないのは、日本史学にポッカリと空いた重大な欠陥である。まさに「史学の長堤に開いた蟻の一穴」で、ここに國體(ウラ)天皇史観の雨水が注げば、一たまりもなく学校史学は決壊する。つまり、「エエでないか踊」と「お札降り」工作の全容は、シノビすなわち中世非人の伝統を受け継いだ極楽寺衆の存在を知らず、知ろうともしない学校史家の理解を超えたところにあるので、いまだに解明できないでいるのである。そして、この解明は、「堀川政略」を知らずには成し得ないのである。
 この工作の主体は誰だったのか。「お札降り」が広域的に流行してから一世紀半を経過したが、今日に至っても、関係者がただの一人も割れないのだから、実に恐るべき組織と謂うほかない。ことに、和歌山城下のような情報に過敏な土地柄で、これほど流行した「お札降り」の仕掛け人(企画実行者)の見当も付かないとは、素人が考えても、史学者の能力を疑うが、日本史学界はこれにに対し、「勤王志士がやったと謂われていますねえ」などと、横を向いて答えるだけである。
 そもそも、「お札降り」が各地で流行したのは明治元年正月に起った「鳥羽伏見の役」の前月である。当時紀州の藩論は、ニュアンスは色々あっても所詮は佐幕派ばかりで、表向きの倒幕派なぞ和歌山城下にいる筈はない。そんな地域まで工作の対象としたところから洞察すれば、「お札降り」工作の企画者は容易に推察できる。「お札降り」の流行期間が、大政奉還から王政復古に至る過程と完全に同期していることも、決定的な証拠である。
「堀川政略」の幕末工程の仕上げは、いうまでもなく「王政復古」である。「王政復古」は奇兵隊天皇の朝廷が、孝明天皇以来の公武一体路線を正反対方向に切り換える政治的作業であるから、これに伴って社会的摩擦が発生するのは必然であり、その摩擦を乗り越えて、王政復古路線を日本社会に定着させるためには、既成秩序を根底から無視することを是とする風潮を、社会的に誘発することが肝要であった。要するに、尾張から起して西に上り、京都を中心にした近畿一円に無理やり騒擾を起こすことを目的とした「お札降り」工作は、「堀川政略」を離れては考えられないのである。
 因ってこれを企画したのは、その当時、王政復古の渦中で揺れていた倒幕派でも新選組でもなく、「堀川政略」そのものを根本的に掌握していた者しかあり得ない。逆に言えば、「堀川政略」の存在を理解しない限り、いかなる史家といえども「お札降り」の真相を知ることはなく、従来の日本史学が「お札降り」を解明しえなかった理由がここにある。
 結論をいえば、「お札降り」を企画したのは國體(ウラ)天皇であった。具体的にその名前を挙げれば、当時の國體天皇であった伏見宮邦家親王(禅楽)に代わって実質的にその役割を分担していた二人の親王、すなわち第四王子の魔王こと中川宮朝彦親王と、第一王子で勧修寺の諜報ネットワークを支配していた山階宮晃親王である。
 実行部隊はむろん伏見殿の諜報ネットワークで、その柱は万世一系皇統の太祖護良親王以来、西大寺系の極楽寺衆であったが、江戸時代に入り伏見殿の諜報部門を勧修寺に付け替えした際、極楽寺衆が勧修寺宮済範親王(のち山階宮晃親王)の配下に転じ、真言宗勧(か)修寺(じゅうじ)派(山階派)の寺院を拠点とする雲水グループの勧修寺衆に衣替えしたものとするのが目下の愚考である。(「極楽寺衆」なる一派については拙著『南北朝こそ日本の機密』に述べたので、ご参照頂きたい)。
 伏見殿の簿外王子が紀州徳川家に入って藩主を継ぎ、徳川吉宗となったが、伏見殿王子の勧修寺宮尊孝入道親王のために、紀ノ川筋の百ヶ寺以上の真言宗寺院を勧修寺派に転宗させたことを前述した。
 その後調べてみると、当時紀ノ川筋の真言宗勧修寺派は百四十余を数えるが、その分布は主として伊都・那賀の二郡で、ことに伊都郡の上・中・下と三つに分かれた官省符荘に同派の寺院が密集している。中官省符荘の入郷村には丹生官省符神社が鎮座する。
 そもそも官省符とは太政官符と民部省符を併せた普通名詞で荘園の立券証の謂いで、官省符荘とはその名の示す通り、金剛峰寺が支配した領域型荘園を固有名詞化した地名であるが、その中心区域に当たるのが入郷村で、女人高野と呼ばれる高野山真言宗の慈尊院があり、金剛峰寺の政所(荘園事務所)もその中にあった。
 もとより、入郷村は「丹生郷」村であって、「郷」は「郡」より小さく「荘」より大きい古代の行政単位であるから、官省符「荘」の中に丹生「郷」があるのは本末顛倒であるが、ここに金剛峰寺と丹生都姫神社の関係が窺われる。建武四年(一三三七)と応永元年(一三九四)の二度に分けて行なわれた荘園の検注で田地三〇〇町歩・畑地八〇町といわれた官省符荘の金剛峰寺支配は戦国時代まで続いたが、天正一八年(一五九〇)に豊臣秀吉が没収して解体した上、再度その一部が金剛峰寺に与えられた。
 その際に金剛峰寺支配から脱して国領となったのが入郷村で、徳川政権もこれを受け継ぎ、当地の実質支配権は古代の領主丹生族に戻されたのである。吉宗がこの地の寺院を金剛峰寺支配から勧修寺派に転宗させたのも、これに関連すると観るべきであろう。入郷村所在の慈尊院は金剛峰寺にとって極めて重要であったために、勧修寺派転向策が発動されたときにも、例外として高野山派のままで残ったのである。(つづく)