洞察索引  

                      

 Ⅰ伏見宮と散所商業網 15 兵法名取流の系譜と相承
            (世界戦略情報「みち」平成26年(2674)5月1日第403号)

●紀伊国伊都郡官省符荘九度山村の地縁は、真田氏と海堀氏に深く関係している。
 真田幸村が配流された地として名高い九度山を、ほんらい真田氏のウラ領地と、私が推察したのは、この地で育った衆議院議長福永健司が昭和五九年に日経新聞に連載した『私の履歴書』で、「自分は甲賀忍者の頭領の家に生まれたが、家の伝統に遵って九度山に棲む同族に預けられた」と語ったのを覚えているからで、あるいは九度山でなく高野口だったのかもしれぬ。
 それ以来、九度山村のウラ領主を真田氏と思い込んできたが、当地の領主は表裏ともに、実は海堀氏だったのである。いや、両氏は実は同族で広く云えば安曇系海民の海野氏なのである。
 現に海堀氏が散在する中官省符荘入郷村の真言宗圓通寺(当時は勧修寺末)の直線距離わずか六〇〇メートルの東方に真田幸村の旧居真田庵(善名称院)がある。また圓通寺の北方で紀ノ川を挟んで三キロ弱に所在する同荘大野村は、兵法新楠流を興した紀州兵法指南名取三十郎(?~一七〇八)が一六年も住み着いて忍術書『正忍記』を著した地である。
 兵法名取流祖の名取与市之丞正俊は旧諏訪家の家臣で、武田信玄に仕えた後に徳川家康の家臣となるが、晩年には浪人して信濃国小県郡上田荘真田郷で過ごした。その子弥次右衛門正豊は、若年諏訪因幡守に仕えた後に、家康の六男松平忠輝に仕えるが、忠輝が改易になると紀州德川家に二五〇石で召し出された。
 その死後、嫡男名取六之助が二〇〇石を相続したが、四男の三十郎正澄は承応三年(一六五四)に新規召し出されて中小姓を命じられ、御書院番に任じた。御書院番小姓は主君の身辺を守護するSPであるから武術の力量を買われた正澄は、やがて御近習詰大御番に転じたのち、「勝手不如意にて、願いのうえ御扶持方下されて伊都郡大野村に在宅」となり、宝永五年(一七〇八)に死去した。
 因みに、名取三十郎正澄の菩提寺は和歌山市寺町の禅曹洞宗恵運寺である。同寺のHPには「勝手不如意」を「藩財政の事情」と書いているのは、「手許不如意」と混同したもので、三十郎が、「和歌山城下では勝手(自由行動)が不如意(不便)」と申し出て、藩禄を貰いながら伊都郡中官省符荘大野村に住んだのである。
 そもそも藩士は城下町に居住する厳重な義務があるが、三十郎はその特例として、在方(地方)で在宅勤務しながら俸禄を頂いたわけである。『南紀徳川史』には、在宅勤務の報酬に就き、「勤(つとめ)中の禄高相(あい)不知(しらず)」とあり、在方扶持の御城下勤務と比べての多寡は判らない。
 三十郎正澄を家祖とする名取三十郎家の二代目を継いだのは総領(実は三男)兵左衛門邦教で、享保八年(一七二三)に小十人二〇石三人扶持すなわち実質二五・四石で召し出されたが、「相知らず」とされている初代三十郎正澄の家禄もその程度と思われる。
 そんな微禄が紀州家の「藩財政の事情」に影響する筈もないから、右の恵運寺HPが示すものは、国語の読解力不足もさることながら、近世史の知識が日本社会で全般的に涸れてきている恐ろしい現実であり、戦後歴史教育の誤りを眼前に見せつけているのである。富裕を誇った紀州藩が下級藩士の家禄に窮したがごとき誤解を生み出したのは、母国日本の過去を憐れみ先人を蔑視する風潮で、これこそ戦後の歴史教育がもたらしたマルクス史観の日本人に対する贈り物である。
 三代目の四郎三郎堯暢は、二五石で表御小姓から御徒頭(かちがしら)格御膳番御小姓として勤めたが、宝暦一一年(一七六一)に、下記の事を藩に申し出た。

 名草郡大野荘名高浦の地士宇野辺又三郎が、わが父兵左衛門邦教を厄介(居候)として預かってくれていたが、家伝兵学の儀を残らず伝授した又三郎に、名取の家督を譲り渡したいというのが、父の存生の願いです。

 これを要するに、「四八年前に家督を相続した兵左衛門は、隠居して四郎三郎に家督を譲ったのち、大野荘名高村の地士宇野辺又三郎の家に居候して、又三郎に家伝の兵学を残らず伝授した」というのである。
 名取家三代目の四郎三郎が、「父の生前の希望により、兵法指南名取家の家督を宇野辺又三郎に譲りたい」と願い出たのを聞き届けた藩は宇野辺又三郎を召し出し、名取家従来の家禄二十石三人扶持を与えて小十人組並小寄合とし、名取の名字を四郎三郎から譲り受けさせて名取又三郎と名乗らせ、「以後藩内にて流儀指南をいたすべき旨」を仰せ付けられたので、ここに四郎三郎は新たに一家を興すこととなった。
 ところが名取系図をよく見れば、初代三十郎正澄の没後から二代目兵左衛門邦教が相続するまでの間、何と一五年も空いていることと、兵左衛門が、実は三男なのに総領、というのも不自然と言わねばならない。
 空白の一五年は本当の総領が二代目の家督を継いでいた時期で、その二代目を存在しなかったことにして、兵左衛門邦教が直接二代目を相続したように装ったのである。伊都郡大野村で忍術研究に没頭していた初代が、起居を共にした子らの中で名取流兵法を継ぐべき者として三男兵左衛門を選び、これを総領に仕立てて二代を継がしたのである。本当の二代目は事実上廃嫡されたが、表向きは存在そのものが抹消された。
 このような経緯で二代目を継いだ兵左衛門が三代目の家督を四郎三郎に譲り、自分は名草郡大野荘名高浦の地士宇野辺又三郎の家に逗留して、又三郎に名取流兵法を伝授した理由を、『南紀徳川史』は、「この当時、君側にて、弟子指南成り難きによりしものか」と推察する。つまり、三代目四郎三郎は藩の公務に忙しく子弟に忍法を教えている暇がなかったため、兵法指南の家職を相続できなかったのであった。
 三代目を継いだ四郎三郎堯暢は、養子にした宇野辺又三郎に名取三十郎の家督と秘伝の兵学書など一切を譲与し兵法指南名取家の四代目としたのは、ずいぶん気前が良い振る舞いだが、四郎三郎自身はこれで隠居したわけではなく、これ以後は八代藩主徳川重倫(一七四六~一八二九)の取り立てを蒙り、遂には御供頭格となり、御広敷向御用・御書物方頭取を兼ねて知行六〇〇石の高禄を受け、寛政六年(一七九四)六月に病死した。
 名取三十郎家の五代目を継いだのは兵左衛門正直であるが、その血統が宇野辺系か名取氏が再相続したのか未詳であるが、ともかく嘉永元年(一八四八)には、御書院にて流儀の「駒立て」をご覧に入れて藩主斉彊から銀二枚を賜り、嘉永七年(一八五四)には根来組頭など各組頭の調練を命ぜられた。表兵法を立派にこなした兵左衛門正直の忍法の力量は伝わっていない。六代竹之助正邦は知行五〇〇石で寄合となり、七代を亀楠正務が継いで名取三十郎家は明治維新を迎えた。
 因みに、紀州藩士名取家の本家は、八代目八助善記が文政九年(一八二六)七月、「不埒の品あるにつき」改易されてしまう。分家して二〇石三人扶持の微禄から始まった名取三十郎家が、三代にして六〇〇石の高禄に達し、その後も五〇〇石余の大身を数代にわたって全うしたのは極めて異例の事である。
 名取流兵学について『南紀徳川史』の編者堀内信は、「先祖が甲州士(武田家臣)だったので、甲州流軍法を以て召し出され名取流と称してきたが、いわゆる秘伝なので、流法の如何(流儀の内容)は知り難し」と注釈し、さらに「家伝之金瘡打身薬はすこぶる有名にして負傷者常に用い、奏功少なからず、大いに貴重せられたり」と記している。右の経緯で宇野辺氏に譲られた名取流兵学のノウハウは、その後は大畑喜八郎に譲られたとあり、表の兵法と名取流忍法は別れ別れになった。それを名取三十郎家の縁類が再び譲り受け、その後は藪谷氏にと転々したが、維新後に薮谷与一郎が流儀の秘伝・金瘡薬法書をすべて南龍神社に寄贈した、としている。
 ところが昨年(平成二五年)五月八日の『わかやま新報』に『紀州忍者の墓発見』が報じられて、ちょっとした話題になった。名取三十郎正澄が著した『正忍記』が国立国会図書館にあり、これが『萬川集海』及び『忍秘伝』と並ぶ三大忍術書として世界中の陸軍で研究され、英・独・仏語などに翻訳されて研究書も出ており、外人研究者から恵運寺に墓の所在を問い合わせてきたのである。 
 恵運寺は諏訪家に関係が深い山本勘助系の寺院である。山本勘助と同じく諏訪家に属していた名取氏が菩提寺を、山本勘助系の恵運寺としたのもうなずける。
 その諏訪家が実は真田氏と聞くが所以は未詳で、ともかく真田氏は諏訪氏を護るために武田氏にも仕えるなどした奮闘していたので、諏訪家から転じて武田家に仕えた名取氏は紛うことのない真田氏である。名取流兵法は流祖の余市之丞と二代目の弥次右衛門正豊の動静を見ても明らかなように、諏訪族と密接な関係にある真田流(甲賀流)の一派であるが、別名を「新楠流」と称したように、族種橘姓の楠木氏とも深く関係している。新楠流は楠正成の兵法を継ぐ流派で「慶安の変」の由井正雪で知られ、楠木氏の伝統にしたがい代々「正」の通字を用いる。名取氏も三十郎正澄から代々の諱に「正」の通字を用いているのは、明らかに楠木氏流を意識したものである。
真田流の骨子は薬学で、名取家伝に高名の金瘡薬があったのも自然である。金瘡薬の原理は、患部を消毒・殺菌して感染症を封じ、後は個人の免疫力に俟つものだから、家伝薬とはおそらく、楠木氏及び丹生族の主要商品であった水銀軟膏、または赤チン類似の水銀剤と思われる。
 名取氏が移住した官省符荘大野村と同荘内入(丹生)郷村の竈(くど)氏流海堀氏との接点は、官省符荘に隣接する三谷荘の丹生酒殿神社である。現在その境内に入っている鎌八幡は旧諏訪明神で、近くに今も住む望月氏はその神官か氏子の末裔と考えられる。
 真田氏が秘かに守っていた諏訪氏がここに入ったのは、当地が真田氏の隠れ領地だったからである。望月氏が真田氏であることは言うまでもない。(つづく)