洞察索引  

                      

 Ⅰ伏見宮と散所商業網 16 國體天皇直臣だったわが祖父
             (世界戦略情報「みち」平成26年(2674)5月15日第404号)

●これから述べるのはいささか私事に渉ることがらではあるが、前稿に深く関わることなので、多少の紙数を費やすことをお許しいただきたい。
 わが祖父は井口米太郎と謂い、明治九年に紀伊国那賀郡粉河荘中山村に生まれた。井口氏は那賀郡池田荘豊田村の根来者井口徳正院の末裔で、先祖の粉河荘の中山村に帰住したようだが、同村は西国三十三箇所観音の霊場として有名な粉河寺のある粉河村の隣村で、現在は紀ノ川市中山と呼ばれている。
 村内にはかつて粉河寺檀徒「方衆」(ほうじゅう)の氏寺として粉河寺末中山寺があったが、『紀伊国続風土記』によれば、江戸時代にはすでに伽藍はなく墓地だけが残っていた。今は同じく粉河寺末の南光寺内に移されて事実上吸収されている。因みに、「方衆」とは、この地を開拓して粉河寺を創建した大伴孔子古の子孫で児玉姓を称し、軍配団扇を馬標にしたが、家紋は桔梗である。
 国宝『粉河寺縁起絵巻』によれば、粉河寺は宝亀元年(七七〇)の創建で、猟師大伴孔子古が観音の奇瑞により発心して開基となった。狩猟中の山中に見た異光に感じた孔子古が発心し、精舎建立を発願して仮寓を建てて住まうと、その仮寓を訪れて止宿した一童男が、七日目に千手観音に変身する、その話を聞いた近隣が挙って千手観音に帰依し、粉河寺となった。
 河内国渋川郡の長者塩川左大夫(佐大夫)に一人娘あり、「全身から膿を出して悪臭を放つ重い皮膚病」にかかり祈祷を尽すこと三年、未だ験あらざるに一童子現われて千手陀羅尼を加持したところ、七日にして快癒した。礼物を謝絶し、所在を那賀郡粉河と伝えて去った童子を尋ね、左大夫一家が翌春粉河の地を尋ねるも見当たらず、山中に分け入ると白粉を溶かしたるごとき水流あり、人家の存在を覚り遡ると上流に老夫婦在りて、白水の主なり。傍らに一庵あり、庵内に白檀の千手観音像の立てるを観た左大夫は、かの童子の観音化身たりしを覚る。
 ざっと、こんな話である。孔子古が得た観音像と塩川左大夫が拝した観音像はむろん同体であるが、一は縁起に絡み、他は奇瑞の基とされたのである。
 この老夫婦が実は橘姓井口氏で、大伴孔子古の入部に先んじてこの地で小農園を経営しており、大伴孔子古が開基した粉河寺は井口氏が護持した千手観音を祀る寺だった。その証拠は粉河寺の寺紋「菱井桁」で、これは井口氏の家紋の一つで、住友の商標でもある。
 吉薗明子氏から教わったこの譚は、戦時中に渋沢敬三らと民俗学を研究したその父吉薗周蔵か、あるいは周蔵と親しかった大徳寺の立花大亀和尚から聞いたと思われるが、明子氏の見解では、「粉河寺縁起」が物語る歴史事実は、粉河=白水は縄文系の橘姓井口氏の故地であるが、後に侵入した弥生系武人族の大伴氏に主導権を奪われてその保護下に入ったことを反映するのではないか、という。
●さて一方の河内国渋川郡の塩川氏であるが、摂津の国人領主で山下城(別名一蔵城)に拠った戦国武将塩川氏として顕れた。塩川氏は出自・系譜など明確でないとされるが、多田源氏の始祖源満仲の女婿に塩川刑部丞仲義がおり、その拠った多田院の新田城の控えとして山下城を築いたようである。代々多田院御家人の筆頭として多田庄及び能勢郡一帯に勢力を有した塩川氏は戦国時代には猪名川一帯を本領として、南を池田氏と、北を能勢氏と接していた。
 結局、摂津多田の御家人の塩川氏は戦国淘汰の中で姿を消し、絶滅したと説明されているが、さに非ず、本貫渋川郡(のち布施市、現東大阪市)では生き残っていた。粉河寺仁王門の前の巨額寄進を記念する古い石碑に、寄進者として名を刻まれた塩川正三が後に布施市長に就いたのはまさに名実相応じた奇瑞であるが、塩川佐大夫の子孫が一三〇〇年経っても仏恩を忘れていないことを示している。
 また、数年前に京都の建勲神社で塩川氏が寄進した石灯籠を見た際によく注意しなかったのが悔やまれるが、たしか「北河内 塩川正一」云々などと記してあったように思う。織田信長を祀る建勲神社に石灯籠を寄進した塩川氏は、おそらく摂津塩川氏の末裔で、遠祖塩川国満が信長の上京時に帰順して二万石の旧領を安堵された恩顧に報いたものと思われる。
 陸軍航空将校であったわが父井口幸一郎は、終戦後は和歌山市役所に糧を求めて吏員となったが、二度ばかり布施市長塩川正三に会いに行ったことを死ぬ前に語ってくれた。用件は時の市長高垣善一の使いとして、「書状を届けた」としか言わなかったが、「家の周りに堀を回らせていた」とのことで、私用のために自宅へ行ったわけである。粉河村井口氏の末裔が、塩川佐大夫の子孫に会ったのも宿縁であろう。
 佐大夫の時代から勢力を保ち、戦国時代には二万石の大名になった塩川氏が千数百年も勢力を保持し続けて布施市長となり、その子の塩川正十郎が平成の御代に財務大臣・文部大臣を歴任するに至ったのは、仏恩および旧恩を忘れない節義のもたらしたものか、と察せられる。
●宿縁と謂うのは下記の事情である。昨年、「京都皇統代」からの伝言として加勢舎人から、「井口が紀伊国名草郡に住まねばならぬのは、井口が弁天なるがゆえ」と伺ったが訳が分からず、問い直したところ、「弁天は癩病の介護を任務とするが、介護施設を弁天ないし三井寺と称し、天下の三井寺に大なる三あり、大津園城寺、大和法輪寺、紀伊国名草郡の紀三井寺これである」との解説があった。
 さらに聞いたのは、癩治療は水を必要とするため、「白水」「出水」の地名が、癩治療の場所ないし施設を意味することである。癩治療が温泉に頼ることは周知で、熊野本宮の熱泉がことに効験ありとされて、小栗判官伝説を生んだ。
 ここで癩病とは、今日の医学で謂うハンセン病に限らず、重篤な皮膚病・関節機能不全などの症候群の総称で、むろんハンセン病が主であったが、梅毒も渡来当初は癩病に混入されたことは間違いないとされている。
 ともかく、皮膚の感染症には熱湯による殺菌が有効であるから温泉療法が重視されたが、癩病の発病と治療には用水の水質も深く関係するらしい。温水は加温でも得られるし、水質が問題とあらば、常温でも善いはずである。したがって「白水」「出水」は温泉場とは限らないのである。
 塩川佐大夫の娘はその症例からして癩病患者と断言してよい。千手観音を加持した童男僧は粉河寺の若い修行僧で、佐大夫に娘の業病の本格治療のためには粉河寺に赴くべきことを勧めに来たわけである。山中の医療施設の存在を粉河寺で教わったで佐太夫一行がそこを訪れると、井口氏夫婦が白水を開設して千手観音を祀っていたという譚と解すれば、甚だ肯綮に当たるものがある。
 それは、東南アジアの南方モンゴロイドの土着宗教は女神を奉じ、海南島の媽祖がすなわち日本の弁天で、道教では観音(南海古仏)と称するがすべて同じ神格であるからである。つまり、白水を経営していた井口氏は、清水を用いた物療に加えて、祭祀する弁天(=観音)により心療も併用していたのである。
 先述したように河内佐大夫の子孫の摂津塩川氏は、多田源氏に仕える多田御家人の筆頭であった。そもそも遡れば大伴氏の大伴満仲が源経基の戸籍に入ったのが多田満仲で、本来の族姓は大伴氏であるから、つまり粉河寺の開基となった大伴孔子古とは同族だったのである。
 塩川氏と粉河寺の関係は患者ないし檀那に止まらず、近年は塩川氏の母系は粉河寺である。すなわち、粉河寺住職逸木盛照の娘が布施市長塩川正三に入室して塩爺(しおじい)こと塩川正十郎を生んだので、塩爺は粉河寺の孫に当たり、現住の従兄弟なのである。
 逸木盛照は野上荘地士田渕氏の子で方衆児玉氏の周旋で逸木氏の養子に入ったが、その姉が嫁した東野上村長中谷久太郎は野上村根来者の中谷主税家で家紋が桔梗である。桔梗紋は、太田桔梗と謂われるように多田満仲流太田氏の家紋であるから、中谷氏は大伴氏と観て良く、大伴氏の同族の塩川氏・児玉氏・中谷氏・逸木氏らが婚姻によって結ばれているのである。
●さて、吉薗明子氏から、橘氏の護衛が大伴氏であったことを聞いてから十数年経つが、史上の「橘奈良麿の変」と「応天門の変」の結果生じた大伴氏の没落は橘氏を守護したために蒙ったフシが多大であるから、粉河寺縁起もその眼で見るべきであろう。
 とすると、粉河荘で小農園を営みながら家職の一つとして白水を運営していた井口氏を護衛するために粉河入りした大伴孔子古が、少数勢力の井口氏に代わって粉河寺の運営に当ったと観れば筋が通る。
 ここで井口米太郎に戻るが、米太郎は若年の砌、ニューカレドニアのニッケル鉱山の採掘に従事し,いくらかの資金を拵えて帰郷し、伊都郡東渋田村に住んで味噌醤油の醸造を行ないながら、那賀郡粉河村で芝居小屋「白水座」、伊都郡妙寺村で「弁天座」を経営していた。昼日中からキセルを咥えて火桶を抱え、次から次へと訪れる旅芝居の座頭のもたらす四方山話に相槌を打ちながら、幾ばくかの銭を与えていたが、一向にカネが貯まらない。しまいには、テキ屋(露天商)の株を買って二三の子分を抱え、親分になっていたという。
 大正一〇年から末期にかけての頃で、小学校の高学年に達していた父幸一郎は、露店を手伝わされて嫌気がさし、米太郎を呪うようになった。覚えているだけでも四十数回の引っ越しによりすっかり貧乏して落ちぶれたことも不満で、フランス領のニューカレドニアくんだりまで出稼ぎに行った経緯も良く分からなかったらしく、自分が九〇歳を過ぎてからも、「親父は一体何をしていたのだろう」と故人の悪口を言っていた。
  幸一郎は、米太郎の真相を知らぬまま、九七歳で亡くなったが、その直後に米太郎の謎が一挙に解けてきた。テキ屋・芝居小屋・旅役者は勧修寺につながり、ニューカレドニアは堀川辰吉郎につながるのである。晃親王は伏見殿邦家親王の長男で、辰吉郎は邦家から國體天皇を継いだ孝明天皇の孫であるから、米太郎は正しく國體天皇の直臣だったのだ。(つづく)