洞察索引  

                      

 Ⅰ伏見宮と散所商業網 17 熊野国造和田氏と粉河井口氏の職能
                (世界戦略情報「みち」平成26年(2674)6月1日第405号)

●前号に述べたように、紀伊国那賀郡粉河荘の粉河寺を創建したのは、当地に古くから入っていた粉河村の橘姓井口氏である。橘姓の代表的な名字は和田氏で、その発祥はもと熊野国を称し、律令制の施行で紀伊国に吸収合併されて牟婁郡となった、いわゆる熊野地方である。
 熊野は古来、諸豪族が入り込んだ地で、侵入して地歩を固めた諸族が、それぞれ偽称する熊野発祥説が世上に流布されて混淆し、今やこれを軽信する者の方が多いから、いちいち弁駁することも憚られる始末である。
 多数決ならウソも成立する衆愚主義の理窟で、古代熊野国の支配者熊野国造を、モノノベ氏の分流穂積姓の鈴木氏とするのが通説である。穂積はおそらく「穂摘み」で、稲穂からコメをこそぎ取る作業を「スズク」というと聞くから、穂積も鈴木も稲作農民にとって最も大切な、収穫作業を表わすことと見ることには疑いがない。鈴木氏の家紋もまたこれを表わす稲穂であって、これを見たければ五円硬貨を眺めればよい。
 ということは穂積姓鈴木氏はほんらい稲作農民で、日本列島を稲作文化が覆ったのと並行してその人口が増殖し、今日では鈴木姓は全国で一番多い姓となった。
 日本列島の稲作農業は縄文時代にまで遡るが、圧倒的に広がったのは弥生時代であることは論を俟たない。弥生稲作が縄文稲作の直線的延長と論じてやまない知人がおられたが、聞けば所論は日本文明の列島自発説を支える論拠として強弁するのであって、その愛国心は汲むが同調はできない。
 日本列島に残るあらゆる歴史遺物に照らして、水田稲作が海外から渡来したことは間違いなく、その淵源も雲南省と断定してよい。稲作民族が雲南からいきなり日本に飛んでくることはないので、人口が飽和した稲作民の一部が長江に沿って下り、浙江省あたりの沿岸で土着の越人と混淆し、倭人と呼ばれる族種を形成してから、新天地を目指して渡来したのである。
 しかしながら、ここで銘記すべきは、雲南稲作が棚田方式で山間の自然水流を利用するのに対し、日本列島の水田稲作の場は主として平地で河川を堰き止めて取水し、用水に導いて人造流水を作り出したことである。これが平地稲作を可能にしたわけである。
 山地の多い日本列島で水田稲作がかくも繁盛したのは、この取水・用水の技術によるものであるが、これを雲南稲作民が心得ていたはずはなく、越人もこれを知っていれば、まず江南地方で大々的に平地稲作を開発したはずであるが、日本列島に渡来したのちの弥生農業の方が平地水田が著しく発達した原因は、これを可能にする特殊な技術が日本列島にあったからである。
 その特殊技術とはすなわち測量術である。重力に任せて流れる自然河川と異なり、取水した河川水を思った方向に流す用水を造るのは、まず測量から始まり、次にその結果を見ながら水路を設計し、その後に具体的な水田の配置を決定するのである。土木作業力がいかに豊富でも、測量設計の技術がなければ田圃一枚造ることができないのである。
 雲南から水田適地を求めて長江沿岸を流下した水田耕作民は、河南広漠の地で僅かの自然河川に沿って水田を作り、土着の越族と混住しながら半農半漁の生活を送るうち、ある切っ掛けで東支那海・南支那海を横断し、黒潮に乗って日本列島へ渡来することとなった。ここで、測量と水路設計技術と結びついたことが、日本列島における平地水田耕作の大発展をもたらしたのである。
 紀伊半島の南端部に所在する熊野地方はリアス式海岸で平地に乏しく、林業資源と水産資源には恵まれていた。その古の熊野国の国造を日本稲作民の中心概念である穂積系鈴木氏と唱えることが、いかに不合理なものか、多言を要すまい。鈴木氏が熊野に縁を有するのは、熊野が測量・水路設計を職能とした和田氏の本貫だったからである。
 そもそも水田開発は測量・設計があってのものであるから、水田民を統括する穂積姓鈴木氏は、その測量・設計の技術を求めて熊野に常住し、熊野座(くまのにます)大神すなわち、本宮ケツミコと新宮クマノクスビを祀る熊野大社に寄進の形で測量・設計費を納付し、一部が神官となって奉仕したのである。
●さて、古代の国造のすべてがそうであったように、熊野国造の和田氏橘姓は熊野大社の神官を兼ねていたが、熊野神官団に潜入した穂積姓鈴木氏が、各地の水田民を熊野大社の氏子とすることで熊野大社内で勢力を伸ばしたのは見やすい道理である。
 熊野神官の和田氏もこれを歓迎したので、実質は氏子総代であった穂積姓鈴木氏が熊野大社内で一定の地位を占めることとなった。後世、地方の氏子の熊野参詣において宿泊参籠など諸般の便利を図り、「御師」(おし)と呼ばれた参詣案内業者の大多数が鈴木氏であったのは当然である。
 熊野国造の系図によれば、第一二代景行天皇と一四代仲哀天皇に挟まれた一三代成務天皇ワカタラシヒコの御代にニギハヤヒの末裔すなわちモノノベ氏の大阿刀足尼(おおあとのすくね)が熊野国造となり、その子の稲比が熊野直のカバネを賜ったとする。
 また「和田氏系図」によると、熊野国が紀伊国に吸収された際に、熊野本宮禰宜としてケツミコを祀る本宮を奉斎したが、醍醐天皇の御代(一〇世紀初頭)に牟婁郡大領熊野連広方が橘姓に改姓した、とある。これは橘奈良麿→島田麿→常主→安吉雄→良殖と続く公家橘氏の系図を継いだ形で、本姓のタチバナ氏へとカミングアウトしたのである。
 橘姓を復活した広方の孫の和田庄司橘良冬は、侵入した仏教勢力と習合して両部神道となった熊野三所権現の社僧熊野別当との競合を避けて北上し、紀伊国北部の紀ノ川流域を所領とし、和泉国・河内国を本拠にした。
 和田庄司の分流は熊野八庄司の二、三家に数えられ、その一つである真砂(まなご)庄司の末裔が最近財務省事務次官となったことが象徴するように、族種タチバナ氏が本来財務に長けているのは、波動幾何系シャーマンだからである。経済力に長けた族種橘氏は県犬養氏を称していたが、これに注目したのが百済貴人の藤原不比等で、橘奈良麿の妹の牟婁女王が藤原不比等の次男房前の妻となって真楯を生み、藤原北家の半分を担いだ。また奈良麿の母は不比等の娘藤原多比野だから、堂上橘氏も半分は北家が担っているわけで、北家は男系が不比等、女系が県犬養(堂上橘氏)で、堂上橘氏は男系の母が県犬養氏、女系が不比等系である。
 つまり平城京の朝廷を左右していたのは、県犬養と藤原北家の連合政権で、換言すれば、百済貴人と熊野和田氏の連合政権であった。
 さて、永くなってしまったが、熊野和田氏の族種的特技であった測量と水路設計を引継いだのは、紀ノ川流域に蟠踞した井口氏で、これが紀伊国那賀郡粉河荘を本拠にしたのである。万葉集の主な編者は橘奈良麿と大伴家持とされるが、奈良麿の変に巻き込まれて没落した大伴氏は、史上いかなる時代にあっても橘氏に対する護衛官であったことが外見的に顕れているが、なぜこのような関係にあるのか、正直言っていまだにわからない。
 いずれにしても、熊野から北上して来た井口氏が粉河荘に入った際、大伴氏の先鋒もこれを護衛して同時に来たと見るべきで、その後に陸続として入った大伴氏が粉河荘の表面上の領主となったのである。
 井口姓は、用水の測量・設計に由来するものである。そもそも「井」とは、今日では井戸の意味で用いられるが、ほんらい水路を指したもので、転じて河をせき止める堰をも「井」と呼ぶのは嵯峨野の大堰(おおい)川を持ち出す必要もない。また、「井」が温泉をも指すことは、各地の老舗温泉旅館が「古賀の井」とか「亀の井」などと称することでも明らかであろう。
 要するに、「井口」とは取水口の意味であって、粉河井口氏の職能は用水建造のための測量水路設計技術者であった。それとともに、これも淵源は判らないが、古来民政観測の職に任じられた井口氏は、地域の景気や作柄、風潮を観察して民情を洞察し、これを國體天皇に報告していたのである。
●明治三一年開業の紀和鉄道が明治三三年に粉河駅と妙寺駅を開設すると、わが祖父の井口米太郎が、粉河駅前に白水座、妙寺駅前には弁天座とかいう芝居小屋を開いたのは、正にこの井口氏本来の職能に任じたのである。民政に関わる情報は、次々にかかる旅芝居の座頭がもたらし、火鉢を抱えながらキセルを咥えた米太郎がこれを聴き取って、民情洞察の基としたわけである。また、芝居見物に集う土民の服装、弁当などを垣間見て民情を判断した米太郎がそれを届けた先は内閣統計局などではなかったのである。
 米太郎はテキヤ(露天商)の株を買ったが、縁日にタカマチを張りにあちこちに出かけた際、いつも連れられて店番をさせられたことを長男井口幸一郎は一生恨みに思っていたが、米太郎の目的はむろん、民情の観察にあったのである。
 江戸時代以前から山科勧修寺が、旅芝居やテキヤの元締めであったから、こうして得た情報を米太郎は山科勧修寺へ届けていたのである。明治四三年生まれの幸一郎が小学生の時代といえば、大正一〇年の前後のことである。
 明治九年生まれの米太郎に國體天皇の命令が下って、ニューカレドニアのニッケル採掘のために、支那人苦力を上海で雇って現地に派遣する役が与えられたのは、竹本コウと結婚する前であるから明治三〇年代のことである。フランスの流刑地ニューカレドニアが発展するのは一九世末からで、ニッケル需要が世界的に増大した煽りを受けてニッケル鉱の採掘労働者が不足し、九州・沖縄方面から日本人が大勢移住したため、本島東海岸のチオ地区の住民一八〇〇人のうち日本人が一三〇〇人もいたという。中には現地の女性と結婚して現地社会に定着した人もいて、今日でも日本姓の住民が少なくなく、ほとんどが日系の移民労働者の子孫である。
 しからば、そもそも井口米太郎が國體天皇によって、ニューカレドニアに支那人苦力を派遣するよう命じられたのは、いったいなぜか。(つづく)