常夜燈索引

                 

    「能」を見直さう 
 (世界戦略情報「みち」平成18年(2666)11月1日第238号) 

▼幼い頃、母からよく聞かされた。大阪の家の近くに狂言師が住んでゐた。ある時、母は私を連れて市電に乘らうとした。すると後から大きな風呂敷包を下げた狂言師が母を追拔き、「ちょつと待つてや」と言つたかと思ふと電車に飛び乘つた。その身輕さに母は驚いた。母は私のことを「この子は大きくなつたら狂言師にしよう」と思つたと言ふ。このことが、よほど母の印象に燒付いたらしい。この話は一度ならず何度も聞かされた。
▼私は狂言師にはならなかつた。三歳のとき父の轉勤で東京へ出て來てしまつたので、ならずにすんだのである。だが最近、下掛寶生流能樂師・安田登氏の『疲れない身體をつくる「和」の身體作法──能に學ぶ深層筋エクササイズ』(祥傳社)を讀んで、母が重ねて話してゐたことを思ひ出した。一つには帶に刷りこまれた「能樂師は、なぜ八十歳でも現役でゐられるのか?……『能』の動きは腦と體に效く」といふ言葉が、母の話を思ひ出させる引金になつたからである。
▼著者の安田氏は一九五六年生まれのワキ方能楽師で、米国生まれのボディワーク「ロルフィング」を学ぶことを通じ、能楽師が八十歳でも現役でゐられる祕密を學びとつた。體のバランスを整へることを目的としたロルフィングは、大リーグやプロのスポーツ選手、アーティストたちの注目を集めてゐる。安田氏は日本でも數少ない米國ロルフ協會ロルファーの一人である。
▼ロックとジャズしか知らなかつた安田氏が、友人に誘はれて能樂堂に足を運んだ。そこで聞いた鏑木(かぶらぎ)岑男(みねを)師の謠(うたひ)に度膽を拔かれた。縁あつて鏑木師の門を叩く。時に二十七歳。「能」のノ字も「謠」のウの字も知らなかつた。以來數箇月、ある時、鏑木師について樂屋に入つて行くと、朗々とした謠が鼓だけの伴奏で聞えてくる。歌舞伎の勸進帳の原曲、『安宅』である。「遠くの舞臺で演奏されているにもかかはらず、それがまるで自分の體内で響いてゐるやうに感じた」のである。しかも謠つてゐる人は九十歳だといふ。その人だけではない。觀世流シテ方の女性能樂師・安立禮子師は八十歳。歌舞伎「鏡獅子」の原曲、能の『石橋』の親獅子を力強く悠々と舞ふ。
▼今どき「能」とか「謠」とか言つても、年寄の趣味か閑潰しぐらゐにしか思はれまい。能を習ったからといって、腰痛や肩こりが治るわけではない。私にはつねづね疑問があつた。いろいろな藝能には夫々精粹がある。能は六百年前、武士階級の間で確立された。武家の間で確立された藝能といふことに、反撥を覺えてゐたのだが、形をなして以來六百年も續いてゐる藝能といふのは、能のほかにはないのである。今、安田氏の著書を讀むと、六百年も續き、しかも現在も入門可能なものは、能のほかにはないのである。そのやうに奧が深いことを改めて知らされた。しかも安田氏は、それを「ロルフィング」といふ切り口で語つてゐる。
▼安田氏はロルフィングの「體のバランス」と「深層筋」に注目する。能樂師は稽古を通していつの間にか深層筋を活性化させ、體のバランスを整へて行く。深層筋とは割合最近目にする言葉だが、體の深層にあつて直接觸れることのできない筋肉だといふこと以外は、あまりよく知られてゐない。そもそも深層筋のなかでもとりわけ、上半身と下半身とをつなぐ、重要な大腰筋は二〇〇一年までは知られていなかったらしく、そんな筋肉が果たしてゐる役割なぞ知りやうもなかった。そんな深層筋について詳しく述べられている。
 のみならず、たとへば、呼吸法。健康には呼吸法、特に腹式呼吸法が大切だとは、いろいろの本に書かれてゐるが、或ひは、僧帽筋のゆるめ方、その具體的な練習法も、この本には圖入りで説明されてゐる。
▼本書の主題ではないけれども、讀んでゐて興味を惹かれることがあつた。それはコトタマについてである。たとへば、「こころ」の特徴は、ころころ變ることであり、能が六百年も續いたのは「こころ」ではなく「思ひ」を基調に置いたからではないかとか、「腹に力を入れろ」とは、腹を力ませることではない。「ちから」の「ち」とは、「靈」であり「いのち」の「ち」であり、漢字をあてれば「魂」であるが、一方、「力む」は支那の字である。「いのち」は、呼吸によつて體内に吹込まれた靈魂を言ふ。「腹に力を入れる」とは、腹筋を緊張させることではなく、「魂の住み家である腹に魂を吹込み、腹部全體が、ほどよい緊張を保つてゐる状態、それが腹に力が入つてゐる状態」(本書一一四頁)である。かうなつてくると、まさに「體で納得するコトタマ學」である。
▼たかが老人のたしなみとみなされてゐた能のただならぬ奧深さを、ひしひしと感じさせる。現在、地方自治體で行つてゐる文化教室に能が含まれてゐることがある。教へる方も教はる方も、古典藝能の一つとしてだけ受け取るといふ「教養主義」の枠を超えてゐない傾きはないであらうか。
それを破る一つの方法論的なものを含め、本書は示唆に富んでゐる。ぜひとも一讀をすすめたい。(赤不動)