常夜燈索引

                 

  日本とケルト ── 福士幸次郎のこと 
           (世界戦略情報「みち」平成18年(2666)12月1日第240号) 

▼二十数年ぶりに人形劇について書いた。『日本人形劇年鑑』といふ日本人形劇聯盟(略稱・ウニマ──世界人形劇聯盟といふ國際組織の一翼)が毎年發行してゐる年鑑にである。題して「歐洲人形劇物語」、ヨーロッパの人形劇の歴史を物語ふうに語つたものである。あまりにもしばらくぶりに人形劇のことを書いたので忘れてゐることも多く、確かめや調べ直しに手間取つた。それはそれで致し方のないことだが、一つ氣が附いたことがあるので、書いておきたい。それは直接、人形劇に關することではないが、文明といふものを検討するうえに参考になるかも知れない。
▼世界地圖を廣げると、距離は離れてゐるが、ほぼ同一の緯度上に似たやうな文明が位置してゐる。ケルトと日本である。どちらも森林地帶であり、いずれもが鐵の文明の國である。なほかつ、今、世界の問題となつてゐる環境問題の鍵となつてゐる森林に深い關りをもつてゐる。
▼日本の貴金屬とは鐵であり、金でも銀でもなかつたことを、文獻、考古學史料、方言の上から明らかにしたのは、詩人・福士幸次郎であつた。
▼福士幸次郎はどんなに簡単な近代文學史にも、自由詩の詩人としてその名が登場してゐる。作家・佐藤愛子が父・紅緑を描いた小説『花はくれなゐ』の中に、福士の弟子サトウ・ハチローから出てゐる話であらうが、かなり詳しく描かれてゐる。
福士幸次郎は、小山内時雄編の年譜によれば、明治二十二年(一八八九)十一月五日、青森縣弘前市に福士家の四男(戸籍上では三男)として生れた。父・慶吉は福士福次郎の孫、富次郎の長男で、この時、四十二歳であった。俳優坂東鍋十郎の門弟で、市川森五郎を名乘り、劇場「柾木座」の座付役者だった。
▼ところが父は秋田巡業の失敗から全くの失業状態となり、大工棟梁の八木橋初太郎の世話で、東津輕郡の同氏の空家に住むこととなり、一家はあげてここに移つた。父は棟梁の手傳ひをする傍ら、青森市の劇場「中村座」の興業の手傳ひをした。その後再三再四引越を繰り返し、幸次郎は明治二十九年、青森市の尋常小學校に入學。だが、小學生にして教師との間に諍ひを起し、單身、放浪の旅に出る。
▼兄が滿洲に出征したのを機に、しばし母と生活し、家庭の幸福を味はふ。このころ、文學書を耽讀。八月、獨りで小石川區水道端の小山留吉を頼つて上京、開成中學に入學(二年生)。だが、營利的な學校、輕薄な生徒たちの間にあって耐へ難い不快の念に終始する。このころ、初めて短歌を作り、秋田雨雀の指導を受ける。
▼明治三十九年、この年、戰地より歸還した兄の世話で、國民英學會に入學、翌年、同校卒業。秋田雨雀の紹介で佐藤紅緑に會ひ、その家に奇遇する。夏、人見東明から新しい詩について學ぶ。▼大正三年、最初の詩集『太陽の子』を洛陽堂から自費出版、その後、住居を轉々としつつ評論、詩集、飜譯を執筆。また、柳田國男その他、文壇に多くの知己を得る。大正十三年の關東大震災で一家をあげて津輕に歸り、そのころから、「地方主義」「地方文學」について説くやうになり、昭和三年六月、地方巡歴の旅に出る。
▼昭和十六年三月より十二月にかけて、タブロイド新聞『大民』に、「原日本考」を連載。翌年、白馬書房から『原日本考』を出版(三千部)。翌年九月、名古屋の三寶書院より『原日本考續篇』を出版。昭和二十一年二月、新潟県富山市に大村來吉の衆議院選擧應援に出かけ氣管支炎にかかり、十月に入つて意識混濁、醫師の手當も空しく、十二時三十分冥目、行年五十七歳。
▼と、略年譜だけで終つてしまふが、これだけでもおわかりのとほり、なんら學歴のない人士である。そのせゐもあって、福士の鐵文明起源説は全く學界からは無視され續けてきた。
古事記・日本書紀ですら「鐵」といふ文字はほとんど用ひられてゐない。支那では鐵は劣等民族の金屬であつて、「銕」としか書かなかつた。記紀は支那文明の漢字を使つていたから、鐵などはありやうがなかつたのである。だが、日本最古の辭書である和名抄には、我國ではカネといへば鐵のことであると、明瞭に記されてゐる。
▼ケルト族に福士幸次郎がいたかだうか、私は寡聞にして知らない。實は、ケルトが森林の民族であり、同時に鐵の民族でもあったといふことは、一部分だけちらりと見たテレビで知つたことである。そこでは、日本の研究者の名前もあがつてゐた。
興味深いのは、ケルトを代表するドイツも日本も、獨自の人形劇をもつてゐることであつた。日本で最近、注目を集めてゐるのは「里山」「奧山」である。話題になつてゐることの一つに、熊が出沒することがある。熊は奧山で活動して、里山には出て來ないものであつた。それが自然の境界を破つて、里山に出現してゐるのが、最近の特徴である。
森林を破壞したのはローマ人だつたといふ説を含めて、文明の生態史を新しい視點で見直したい。(赤不動)