常夜燈索引

                

  年金総額一五〇兆二三一億円の行方 
           (世界戦略情報「みち」平成19年(2667)6月15日第252号) 

▼五千万件もの年金記録が宙に浮いていることが明らかとなり、社会問題となっている。その原因は、平成九年の基礎年金番号統合の際の手書きデータの入力ミスだとされていたが、実は昭和三〇年代から入力ミスが発生しており、そのまま放置されたものもあるという。また、全国の市区町村の約一割に当たる一九一の自治体で国民年金の手書き台帳(加入者名簿)を廃棄しており、政府は社会保険庁のコンピューター記録と手書き台帳の記録をすべて照合する方針を表明していたが、それも一部は不可能だと判明した。
▼筆者の身内を含め複数の人から現在の騒動が起きる以前、社会保険庁職員の勤務態度について聞いたことがある。
 年金の問い合わせをしても、まるで年金を詐取する犯罪者を扱うような態度で応対し、とても集められないような古い書類や資料の提出を要求、何度も呼び出した挙げ句、ゼロ回答ということを平然とやったという。問い合わせたり相談した者は根負けし、これ以上時間を使いたくないと泣き寝入りする例が多いようだ。これは単なる一職員の性格や個性に由来するものではなく、社会保険庁の多くの職員に共通の接客態度として、この異常な横柄さが見られるようである。問い合わせてきた者を畏怖させ、嫌な想いをさせるということを組織的にやってきた理由は一つしかない。なるべく年金を支払わないように、少しでも年金の支払いや資格に疑義を感じている者に受給を諦めさせる、ということを意図しているとしか思えない。社会保険庁が民間企業では信じられないような規律の緩い勤務協定を労働組合と結んでいたのも、社会保険庁という役所の機能不全を狙っていたからであろう。さらに、今回明らかとなった五千万件もの記録の紛失も、当然意図的に行なわれているはずである。一九一もの市区町村が記録を廃棄したのも勝手にやれるはずはなく、上からの命令あっての処置に相違ない。
▼五千万件といえば、国民のかなりの部分が関わり合うような件数であり、その記録が宙に浮いているということは、年金支払いを止めるため、故意にそうした事態を作り出したと考える外ない。つまり、そもそも年金制度の最初から、徴収された掛金は国民に支給するためではなく、別な目的に使うために作られた制度だったということである。したがって国民の不満が爆発しない程度に、支払いを厳格にし、記録はなるべく破棄したり、混乱させて、国民の泣き寝入りを待つというやり方を続けていたのである。現実にこれまでは見事にこれが罷り通っていたのだ。
 現在、年金積立金管理運用独立行政法人が運用する厚生年金、国民年金の積立金額は一五〇兆二三一億円と公表されているが、 本当にそれがあるのかどうかは誰にも分からない。
 安倍政権が年金の真相を掴んでいるかどうかも不明だ。武見太郎、橋本龍伍といった戦後の厚生行政を設計した人々が、年金という合法的手段で国民の金を徴収し、これを一種の秘密資金の用に供していたという裏面に通じているのであれば、年金制度の欺瞞性の暴露という今日の事態こそは、期せずして「戦後レジームからの脱却」そのものといえるかもしれない。事実は、年金ではなく、税金だったのであり、これが戻ってくるというのは甘い期待でしかない。
▼第二期ブッシュ政権が掲げた公約の一つに「オーナーシップ社会の実現」というものがあった。イラク戦争の泥沼化により、この社会改革案はいまのところ陽の目を見ていない。
「レンタカーを洗車する借主はいない」とブッシュ大統領はよく口にするが、株式や住宅などの所有者を拡大することにより、社会の活力増大を目指す、という経済政策の一つである。一言でいえば、個人一人ひとりが経営者となり株式や金融商品や不動産を運用して利益を上げ、公的年金や社会保障に頼らないオーナーシップ(所有権)社会を作るという考え方である。そのかわり個人経営者への課税は低率にして負担を軽減する反面、株や不動産への投資の失敗はあくまで自己責任で損失を甘受しなければならない。
 わが国でも公的年金への信頼が揺らげば、否応なく資金を民間年金や個人での運用に回すようになる。一種の「オーナーシップ社会」という鉄火場に足を踏み入れざるを得ない。
▼年金制度の趣旨は核家族化、都市化が進むわが国で家族内の「私的扶養」によって親を支えることが困難となり、高齢者を社会全体で支える「社会的扶養」が必要になったから、といわれる。
 われわれは年金に頼らなくとも立派に生きていた。明治期の日本研究家として有名なチェンバレンは「貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない」と当時の日本に驚嘆している。咸臨丸を長崎に回航してきたカッテンディケも「日本人が他の東洋諸民族と異なる特性の一つは、奢侈贅沢に執着心を持たないことであって、非常に高貴な人々の館ですら、簡素、単純きわまるものである」と感心している。わが国では「社会的扶養」は当たり前のように夙に行なわれていたのだ。(青不動)