常夜燈索引

                 

      逆臣はあらず 
     (世界戦略情報「みち」平成20年(2668)2月15日第266号) 

▼平成九年一月一四日に行なわれた宮中歌会始の儀、当日の召人、齋藤史の詠んだ歌がある。

野の中のすがたたゆけき一樹あり 風も月日も枝に抱きて

 女流歌人として日本芸術院会員にも選ばれた齋藤史は二・二六事件に連座し二年半にわたって獄中にあった軍人で歌人の齋藤瀏(さいとうりゆう)予備役少将の長女である。
 二・二六事件の際、首相官邸を襲撃したことで知られる栗原安秀中尉は、史と北海道旭川の小学校で同級生であった。それぞれの父親が旭川第七師団少佐参謀であり、家族ぐるみの付合いだった。
 昭和一一年七月五日、特設軍法会議は栗原中尉や香田清貞大尉、安藤輝三大尉ら一六名に対し叛乱罪により死刑判決を下した。七月一二日、代々木の陸軍刑務所にて銃殺刑に処せられた。

 額(ぬか)の真中(まなか)に弾丸(たま)うけたるおもかげの 立居に憑きて夏のおどろや
 天皇陛下萬歳と言ひしかるのち おのが額を正に狙はしむ
 ひきがねを引かるるまでの時の間は 音ぞ絶えたるそのときの間や
 たふれたるけものの骨の朽ちる夜も 呼吸(いき)づまるばかり花散りつづく
 暴力のかくうつくしき世に住みて ひねもすうたふわが子守うた

 これらは齋藤史が二・二六事件後に詠んだ歌である。
▼平成六年五月、日本芸術院新会員として宮中午餐会に招かれた齋藤史は、今上陛下から「お父上は、齋藤瀏さんでしたね、軍人で……」と問われ、「初めは軍人で、おしまいはそうではなくなりまして。おかしな男でございます」と答えたという。

 「おかしな男です」といふほかなし 天皇が和(にこ)やかに父の名を言ひませり

 その三年後、あと一ヶ月で八八歳になろうとしていた史は召人として再び参内した。史は歌会始の会場に向かう階段の途中のガラス越しに、兵馬俑に似た軍服姿の一団が庭にいるのを見た。栗原や坂井直中尉ら銃殺刑になった青年将校たちが整列しているかのようだった。
 参内する前夜、史は「みんな一緒に行こうか。今度こそ成仏できるわよ」と青年将校たちに声を掛けたという。
 式典終了後の控えの間で、再び史は陛下から「お父上は瀏さん、でしたね……」と訊ねられ、胸の奥から熱い涙とも分からない塊がこみ上げてきた。歌会始の選者の一人、岡野弘彦は今上陛下が「例の事件のことを」勉強しておられるご様子だと史に伝えていた。
 帰りの宮殿の庭に兵馬俑の姿は消えていたという。
(以上は、今年一月に出版された『昭和維新の朝(あした)』工藤美代子著を参照させていただいた)
▼「真崎は教育総監たりしときの上奏文の中に、日本は国家社会主義にならざるべからずとの意見を開陳したることあり、為に陛下は之に加筆遊ばされたることあり。このことを近衛は知るや否や──」
(細川護貞著『情報天皇に達せず』)
 昭和一九年六月、近衛文麿元首相は敗色濃い東条内閣を抑えるため、真崎甚三郎大将の登用を木戸幸一内大臣に意見したところ、昭和天皇から真崎への疑念が表明された。真崎は「……聖天子ニモ何等カノ人違ヒ若ハ思ヒ違ヒアラセラルルコトト判断セラル」と己を国家社会主義者とみなす昭和天皇の認識を否定した。「真崎は二・二六事件の関係者」という風聞から、陛下は決して真崎を許さなかったと言われている。
「お前らの気持ちはヨオークわかっている、ヨオークわかっている」
 二月二六日に陸相官邸に駆け付けた真崎大将が、出迎えに出た磯田淺一や香田清貞大尉らに言ったという有名なセリフである。ところが、当時真崎大将の護衛憲兵だった金子桂伍長は「そんなことは全然なかった」と否定し、「『馬鹿者!何んということをやったか』と大喝され、陸軍大臣に会わせろといわれました。彼らはとまどっておった」(『評伝真崎甚三郎』田崎末松著)という。
 真崎の長男・真崎秀樹は外務省勤務でありながら戦後昭和天皇の通訳として二五年間お側に仕えた。ご訪欧、ご訪米に同行し、通訳であると同時に身を挺し盾となる護衛役も果たしていたという。外務省高官はその姿を見て、「真崎は死ぬつもりだなァ」評した。
 真崎甚三郎の信千代夫人は「ご聡明な陛下は、よもや逆臣の子を側近に侍らせられるようなことはなさいますまい」と語っていた(前掲書)。
▼三島由紀夫は昭和四一年、『英霊の声』を上梓し、二・二六事件で処刑された青年将校や特攻隊員への強い感情移入と、天皇の「人間宣言」への嫌悪を著した。
 昭和四五年一一月二五日、三島は「われわれは四年待つた。最後の一年は熱烈に待つた。もう待てぬ」(檄)と述べ、天皇陛下万歳を唱えて自裁した。
 三島の実弟・平岡千之は外交官で、駐セネガル大使退任後、宮内庁式部副長に就任した。昭和五九年一月の
歌会始に初めて出席し、昭和天皇に間近でお仕えした。三島事件から一四年目のことであった。(青不動)