常夜燈索引

                    

   「猫に小判」の叡智 
  (世界戦略情報「みち」平成20年(2668)5月1日第271号) 

▼俗に「猫に小判」、「馬の耳に念仏」などという。貴重なものを与えても、本人にその値打ちが分からないことの例えであり、馬に有難い念仏を聞かせても無駄であること、として使われる揶揄の言葉である。
 猫や馬すなわち動物には、人間の心のありようが分からない、という意味から、人間でも大事なことが分からない人の例えとして使われる。逆に考えると、地球上の生物で人間だけが宗教(迷信)と貨幣を持つ動物である、ということを意味している。
 猫にとって黄金は、食べることのできない無用の長物であり、まして数字を印刷した紙を有難がる習慣はない。むろん、拝む神が違うという理由で殺し合う馬や牛もない。
 なぜ人間以外の生物には宗教や貨幣がないのだろうか。人間ほど脳や心が高度化、複雑化しなかったからなのだろう。宗教や貨幣はいずれも人間の心が産み出した生活上の便宜だったはずである。ところが、それが文字や画像によって外在化し、いつの間にか自らが産み出した宗教や貨幣が人間の心を支配し、神となって人間の上に君臨するようになった。
 日本人は昔から「鰯の頭も信心から」とか「ホッケボシ」などといって、頑なな信仰者を揶揄する健康な精神を持っていた。バテレンを「西洋法華」と嫌い、明治以降入ってきた社会主義思想に対してその信奉者を「シュギシャ」と呼んだのも、イデオロギーに固執する人々に胡散臭いものを感じていたからに他ならない。
▼釈迦は人生に疑問を持ちはじめバラモンについて修行した。絶対的信仰を以て難行苦行を果たすことで煩悩からの「解脱」や「安心立命」を得ようとして出家したが目的を達せられなかった。その後苦行僧たちと離れ、若い女性に誘われるままにその家に入り込み、食事を与えられて休養し、健康を回復して気分も正常に戻った。そこで、いままでの一切の知識を捨てて独坐して智恵を凝らしていると忽ち「悟り」を開いたと言われている。
 すなわち釈迦は信仰を捨てて悟りを開いたのだ。悟りとは理解と認識であって信仰ではない。信仰が宗教であると考えている宗教学者とは対極の立場にある。
 信仰はすべてを神の思し召しに委ね思考や自我を放棄する一種の思考強制、他力本願である。信仰は強化されればされるほど、強烈な迷信となって社会に害悪をもたらす。キリスト教の科学者迫害・異教徒虐殺、オウム真理教のサリン事件など、その古今の例は枚挙に遑がない。
 釈迦族はネパール族であり、文字を持たなかった。それゆえ迷信から離れ、悟りを開くことができたのであろう。諸行無常、諸法無我、涅槃静寂の一二文字に釈迦の説は要約できるとされるが、宇宙のすべての物事は他との関係において存在し、すべて他に対し機能し、すべての他から作用を受けて変化する。つまり、固定した実体も実在もないということだ。宇宙世界はすべて関係において存在し、変化するという今日の原子物理学や量子力学が述べていることがそのまま釈迦の唱えた内容といえよう。人間は宇宙の生態系の関係の中で生きているということであり、そこに、一神教的信仰の排他・独善はまったく存在しない。
▼今日サブプライム問題など金融問題が世界を混乱に陥れている。曇りない目で見れば、その金融問題の大半は「貨幣現象」であり「経済現象」ではない。
 経済現象とは日常生活であり、衣食住に関わる人間の生命維持のための活動である。
 貨幣現象とは、日常生活から乖離、外在化した数字現象であって、数字がコンピュータの中や紙の上を動き回る単なる「つくりごと」の発現である。人の心が作り出した虚の世界であり、猫や馬が関知しない世界である。
 人間の世界のどこが非貨幣の世界であり、どこが貨幣の世界かを明らかにすることは、世界の混乱を終熄させる上で重要なことである。
 人が子供を育て家族を形成するのは非貨幣の世界での行動だ。ところが、親子、兄弟姉妹、夫婦の間に遺産相続などの金銭問題が入り込んでくると、一挙に貨幣世界に転換し、家族がバラバラとなって関係は希薄化、崩壊することすらある。
 植物の光合成がすべての生命の基礎であり、人類は食物を育てる農業を始めて文明を作り出した。農業は本来、自給自足的な性格をもち、工業製品のような交換売買になじまない。そのため、今でも特に日本の農業は生態系産業、非貨幣世界の色を強く残している。
 九・一一事件の際、ニューヨークの世界貿易センタービルにあった証券会社のコンピュータが破壊され、巨額の取引が消滅した。結果的にこれは経済現象=生態系にほとんど影響を及ぼすことなく解決した。
 貨幣現象=数字現象の虚妄から世界の人々を覚醒させて、生態系の原理に基づく経世済民を実現するために、「猫に小判」、「馬の耳に念仏」の叡智と発想をもつ日本人が世界文明変革の先頭に立つ時がすでに来ているのである。(青不動)