常夜燈索引 

                

  真方衆別式女松葉について 
     (世界戦略情報「みち」平成21年(2669)7月1日第297号) 

▼徳川第一一代将軍家斉は天保八年(二四九七)、将軍職を二男の家慶に譲って江戸城西の丸に移り、大御所と呼ばれて実権を握り続けた。その年「大塩平八郎の乱」が起きている。
 家斉の正室近衛寔子(ただこ)(広大院)は第八代薩摩藩主島津重豪(しげひで)の娘だが、近衛経熙(つねひろ)の養女となって輿入れした。
 あるとき、岳父重豪がご機嫌伺いに家斉を訪れに登城した際、「島津候の庭の一番大きな蘇鉄の根元に葵紋入りの笄が(かんざし)差し込んであるそうだが……」と家斉が意味ありげにつぶやいたという。
 家斉の言葉に公儀隠密の薩摩藩潜入を直感した重豪はさっそく国元の鹿児島に急使を飛ばした。薩摩藩三田本邸にも千代田装束屋敷にも白金別邸にも蘇鉄を植えておらず、家斉の話に出た蘇鉄とは鹿児島の磯御殿の庭の蘇鉄に違いないとの判断だった。
 隠密が藩主別邸に忍び込んだという、警備の重大欠陥を将軍の口から漏らされたとあっては、剛毅果断といわれた重豪の面目は丸つぶれであった。
 当時薩摩藩主島津斉宣(重豪長男)に仕えていた「別式女」松葉の調べによって磯御殿の蘇鉄の根元に葵紋入りの笄を差し込んだのは、磯御殿に来演興行を行なった江戸歌舞伎一座に紛れ込んでいた隠密役者の仕業と判明した。「別式女」とは、美貌で武術に長けた女侍のことを謂い、大小を差し、藩主の身近に仕えて警備指南などを務め、別名「帯剣女」とも呼ばれた。薩摩藩には四人いたといわれている。また、徳川御三家、長州、肥州などにもいたという。一廉(ひとかど)の見識を持ち、青侍など寄り付くこともできないほどに権威があったのが別式女であった。
 松葉とその一党は隠密潜入の責めを負い、藩の密命を帯びて偽歌舞伎役者を討殺すべく江戸に向かった。
▼松葉は浅草の金龍山浅草寺(元来は占宗寺で易、占いの宗寺だった)や神田明神、鳥越神社、花園神社、山王日枝神社、目黒不動、芝明神、白山神社、八幡神社などの神社仏閣を中心に、弾左衛門や車善七などの朋党の協力を得て数年がかりで調べ尽し、遂に歌舞伎役者に紛れ込んだ隠密集団を見つけ出して、全員を討殺した。
 蘇鉄事件への復讐を思い知らせるため、江戸城の中奥から大奥に通ずる境にある御鈴廊下の御錠口の杉戸横に植えられた手洗い南天の根元に、梅鉢と三つ巴紋入りの笄を差し込んだという。
 公儀隠密もさるもの、強大な軍団であった。江戸潜入の松葉の朋党一八名は松葉を除き全員が討死している。
 徳川家斉がなぜ蘇鉄問答をしたのか、按ずるに、そこには徳川と島津による松葉ら朋党を抹殺する計略が潜んでいたのかもしれない。
 松葉の姓は窪田で、窪田は後の西郷南洲に連なる真方衆(まがたんし)の一族であった。その松葉だけが鹿児島に生還している。
 松葉は江戸との往復の旅路で女一人と見て迫ってくる男に、「ああ、いすごわんが、させもんで(ああ、いいですよ、させますよ)」と言って近くの森や藪影に誘い込み、いざ一事に及ぶ段になると、隠し持った懐剣で相手の男の金玉をスパッと切り取ったそうである。合計五人の男が犠牲となった。
 当時この話が松葉の故郷薩摩伊集院で有名となり、「松葉ドンならそいぐらいやっじゃろ」と言われ、松葉には「うっ切いどん」という綽名がついた。男たちは女たちから何かにつけては、「うっ切んど」(うっ切りますよ)とか「松葉ドンのすっど」(松葉ドンのようにしますよ)とおどされるようになったそうである。
▼西郷隆盛は主君島津斉彬の健康快癒のため松葉ゆかりの目黒不動尊に日参したことが書簡に残っている。鹿児島の福島矢三太氏に送った手紙に「只今、致方御座なく、目黒不動へ参詣致し、命に替て祈願をこらし、昼夜祈入事に候」とある。
 西郷と同じ鹿児島市加冶屋(鍛冶屋)町二本松馬場出身の海軍大将東郷平八郎は日本海海戦に臨む前、戦勝を祈願して目黒不動尊に参拝し、凱旋の後に自ら額(不動明王)を書して奉納している。
 幕末期会津藩の家老だった西郷頼母は、西郷南洲との関係について、私記『栖雲記』の中で「維新の初め、館林藩の幽閉を免ぜられ、東の京・隅田川の川辺より、伊豆の月の浦近きあたりに移りしが、やがて謹申学舎を開き、里人等に学びの道を授けしに、都々古別の宮司になりたる後、その辞すべき旨令せられしは、西郷隆盛が謀反に組せし疑とぞ聞ゆ」と記している。頼母が政府から「隆盛の謀反」(征韓論から西南戦争)に加わっていたと疑われたらしいことはこれによって分かるが、近年発見された南洲から頼母に宛てた二通の書翰によれば、どうやら両西郷には維新政府発足後、第二維新断行の盟約があったようである。
 いわゆる征韓論論争に敗れた西郷は明治六年一〇月二三日辞表を提出し、二八日東京を出発するまで向島小梅の越後屋の寮で西郷頼母や真方衆と語り、横浜で勝海舟と会して船で大阪を経由、一一月一〇日鹿児島へ帰った。
 歴史の断点に活躍する真方衆なる存在に引続き注目したい。(青不動)