常夜燈索引 

                黒不動

  丹波黒井城主荻野悪右衛門直正 
        (世界戦略情報「みち」平成21年(2669)11月1日第304号) 

▼グルメなどという退廃趣味に何ら興味はないが、「丹波黒大豆しぼり豆」というお菓子をお土産に頂いて食べたときは唸った。見栄えはよくない。確かに大豆としては異様に大粒であるが、干葡萄の出来損ないのように中途半端に乾涸(ひか)らびていて、表面に何やら白っぽい細かな粉のようなものが薄く付着している。さて、口に入れると、全然甘くない。甘納豆と思って食べた者は、確実に裏切られたとの思いを抱くはずだ。特に、濡れ甘納豆に親しんでいる向きには期待外れも甚だしいだろう。ところがである。噛んでいるうちに、静かに甘みが湧き出してくる。控えめながら、否(いな)みようのない確かな甘さに満たされる。それは自ら誇らずとも、衆人をして認めさせずにはおかない高貴なる甘さとでも言うべきか。小振りの菓子袋一つをお土産に貰っただけだったから、あっという間になくなった。そしてごみ箱に袋を捨てた。半日ほどして、あの甘さは只事ではないと気づいて慌ててごみ箱を穿(ほじく)り返し、どこで製造しているかを調べて、早速五袋注文した。以来、少々贅沢とは思いつつも年に一、二度注文して自ら食べたり仲間に分けたり親しい人に送ったりしている。その名の通り「丹波黒大豆しぼり豆」は丹波の産で、丹波篠山の小田垣商店が製造・販売している。
▼今夏、思うところあり丹波氷上郡を訪ねた。荻野悪右衛門直正(一五二九~七八)という戦国武将の事跡を調べてみたいと思ったのである。歴史小説などにもほとんど登場しない(例外として司馬遼太郎『貂の皮』)武将ではあるが、イエズス会と通じ国体の変革(皇室廃止や西暦施行)を目指す織田信長に危機感を抱いた面々により結成された信長包囲網の中心にあったのが近衛前久(一五三六~一六一二)だとすれば、その近衛前久を蔭ながら強力に支えたのが荻野、または赤井直正であった。荻野氏も赤井氏も、保元の乱により信州高井郡井上村から丹波氷上郡蘆田庄(現丹波市青垣町東芦田)に流された清和源氏源頼季流の井上大炊介判官代家光(家満とも)を遠祖とする丹波蘆田氏の同族とされている。荻野直正は元々は赤井氏の出であるが、当時同族の中で中心的な重きを為した黒井城に拠る荻野伊予守秋清を刺殺してからは荻野悪右衛門直正を名乗って黒井城主となった。荻野氏の黒井城が宗家的な地位にあったからであろう。
▼近衛前久は関白職を経験した公家中筆頭の人物でありながら相当の長期間にわたって信長と親交をつづけ、また明暗激しい生涯の中で北は越後、東は関東、西は薩摩まで各地に旅している。武人としても知られていた。謎に満ちた人物である。閑居の暇もないはずのその近衛前久が黒井城主荻野直正の下におよそ三年もの長きにわたって滞在したのである。芦田確次・村上完二・青木俊夫・船越昌著『丹波戦国史』(歴史図書社、昭和四八年刊)によれば、公卿補任、多聞院日記、言継卿記などに「永禄十一年(一五六八)十一月三十日、この月、関白近衛前久出奔す。子信尹(のぶただ)、家督を嗣ぐ。尋(つい)で幕府、其第を毀(こぼ)ち将軍地蔵山城修築の用に充つ」と記されているという。
 永禄一一年九月二六日、織田信長は足利義昭を奉じて総勢四万とも六万ともいわれる軍勢とともに京に入った。一〇月一八日、足利義昭が一五代将軍に就く。関白近衛前久出奔はそれから一ヶ月半後の一一月三〇日である。現職関白の出奔などという事態は、前代未聞で人々を驚かしたが、その原因については明記された史料がない。ただ、「武命に違う」と記されるのみである。つまり、信長によって新将軍となった足利義昭の意向と対立したことが推測されるが、具体的に何が問題となったかは分からない。だが、命の危険をも感じたからこその「出奔」となったのであろう。ただし、「武命に違う」とはいえ、対立したのは義昭とであって、その後の蜜月時代を考えると、信長と対立したのでないことは確かだろう。前久はその後摂津の石山本願寺、河内若江を経て、天正元年(一五七三)のころ丹波に入る。なぜに丹波なのか、前久子息信尹の母が丹波船城郷稻塚村(黒井城西麓の小集落)の波多野総七の娘であった関係とか、色々と憶測がなされているが、奥丹波に雄をなした荻野直正を抜きにしては前久の丹波における長期滞在はありえない。しかも、先妻を早く亡くした直正は前久の息女(妹の説もある)を後妻に娶り、後に伊賀藤堂家に仕えた赤井氏の家祖直義は直正と近衛竜山公前久の娘であるとその家伝『赤井家先祖細記』にあるという。そして、実際に訪れて初めて分かったことで、「黒大豆しぼり」に感嘆しているから言うのではないが、丹波は実に豊かである。流浪の貴族を一人や二人養うには事欠かない土地である。ただし、丹波の人に聞くと、氷上郡では篠山ほどの大豆は穫れないそうだ。しかも、京から至近距離にありながら、摂津や河内ほどには簡単に軍勢を入れられない。土地の国人衆が独自の勢力を張っていたからだ。『甲陽軍艦』にも名将と謳われた荻野直正がその在地勢力の代表格であった。(黒不動)