常夜燈索引

                    

  後鳥羽院 ── 最後の「まつりごと」 
          (世界戦略情報「みち」平成22年(2670)1月15日第308号) 

▼承久の乱は武士団と朝廷が衝突し、武士団が勝利した戦いだった。勝った北条義時、泰時は後鳥羽、順徳、土御門三上皇を配流に処し、仲恭天皇を退位させ、後堀河天皇を擁立した。それまでの保元・平治の乱と崇徳天皇の配流は、あくまで朝廷の内紛の結果であり、臣下である武士団が公然と天皇や上皇を処分したのは承久の乱を嚆矢とする空前絶後の出来事だった。 
 当時の武士は事を起こす場合、「院宣」や「令旨」を受けて天皇や親王の命によって行動する建前を守っていた。承久の乱では、後鳥羽院の下された義時追討の「院宣」をはね返して軍を起こしており、従来の歴史に見られない「大義名分」なき戦いだった。 
 水戸彰考館総裁だった安積澹泊は『大日本史論讃』の中で

「後鳥羽上皇、驕亢の志を肆(ほしいまま)にして、不善の政を施い、殆ど、生霊をして塗炭に堕さしむ、而して義時は、民、命に堪えざるを視るに忍びず。是を以て屡々詔旨を挌(こば)みて、天威に触犯す。而して上皇赫怒して、遂にこれに兵を加う。則ち、義時、天下に辞あり。故に三道より兵を進め、直ちに京畿を犯す。而して将卒は、難に赴き命に奔り、一人の後るる者無く、幕中の元老・謀臣、大江広元・三好康信の如きも、亦、謀略を陳べて以て之を賛け成す。斯れ、以て衆心のむかう所を見るべし。豈、概して叛臣を以てこれを視るべけんや。義時に責むる所あらざるなり。兵難、已に平ぎ、志を天下に得たり。是の時に当り、何を求めてか獲ざらん。何を欲してか成らざらん。然るに、その身を終うるまで、位、四品を踰えず。子孫、世々節約を守りて、以て、海内に虞なく、家ごとに給り人ごとに足るを致す」

と述べている。
 北畠親房は『神皇正統記』で「承久の事は、その曲、上に在り。泰時は義時の成績を承け、志を治安に励み、毫も私する所無し」と主張し、澹泊も親房も、承久の乱は後鳥羽上皇に責任があり、その後の政治を収束させた北条泰時を私のない、公平で立派な人物と讃えている。
▼承久の乱で敗れた朝廷側は以後今日に至るまで現実政治における統治権、権力を失い、現在も幕府的、北条的権力が政治を握っている。明治政府と雖も実態は薩長土肥による藩閥連合幕府であり、明治天皇は憲法草案を御覧になって「朕には何の権限もない」と立腹し伊藤博文に無言の抵抗をされたほど、立憲的制限君主であった。近衛文麿が大政翼賛会を作り、結成式前日に昭和天皇に報告した際、天皇は「このような組織をつくってうまくいくのかね。これはまるで、むかしの幕府が出来るようなものではないか」と皮肉な言葉で批判なさっているが、当時も天皇は幕府の掣肘下に置かれた存在だった。戦後憲法の「内閣の助言と承認」も同様である。承久の乱がいかにわが国の歴史を変えた戦乱だったかが判ろうというものである。
▼後鳥羽院は、藤原定家、藤原有家、源通具、藤原家隆、藤原雅経、寂蓮の六人に勅撰集の命を下し、『新古今和歌集』を撰進したことでわが国中世屈指の歌人として知られているが、同集の編集にあたっては、『明月記』などから、院自身が撰歌、配列に携わり、実質的に後鳥羽院が撰者の一人であったことも明らかになっている。
 当時の公家が政治そっちのけで和歌や音楽に熱を上げていることを後世の儒家史家達は批判するが、武家中心政権が綴った歴史は勝者の歴史でしかない。後鳥羽院が手本とした『古今集』仮名序の冒頭に

「やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言い出せるなり。花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いずれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地を動かし、目に見に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをも和らげ、猛き武士(もののふ)の心を慰むるは歌なり」

とあるように、やまとうた=言霊こそは天地を動かし、鬼神を感服させ、男女を和ませ、武士をも慰める、すなわち「まつりごと」そのものだったのである。
▼後鳥羽院は言霊に没入した詩人にして、英雄であり、本来のわが国の「まつりごと」を司る最後の帝だった。
 隠岐に遠島となった後鳥羽院は一九年の歳月をそこで過ごし六〇歳で崩御された。

「院の詩心は、……もつと広い茫漠とした天地と人間の歴史からわく感銘の自己反省であらうし、ある永遠な決意と志の詩化である。あるひは詩人と英雄の宿命の悲劇の肉体化である。日本武尊が最初に発見された神と人との間の悲劇の詩心は、この院に於いて歴史の英雄の悲劇として浄化された。詩人と英雄の、物語と歌の関係を、我々はこの院によつて知つた。私は新古今文壇の天才をすべて措いて、この院に新文芸の世界の精神と決意を見る所以である」
(保田與重郎『後鳥羽院』)

 想えば、永い遠島が今も江戸政権下で続いている。言霊の幸にぎわう神人同殿のふる里にご帰還される日は、いつになるのであろうか。 (青不動)