常夜燈索引

                    

  魔界大天狗の咒詛 
(世界戦略情報「みち」平成23年(2671)2月1日第331号) 

▼維新政府軍が奥羽越列藩同盟を厳しく攻め立て、戦闘の終結が見え始めた慶應四年(一八六八)八月、京都上京に白峯神宮が創建された。孝明天皇が幕府に創建を命じたが聞き入れられず、大政奉還後に明治天皇が父の遺志を継いで建立された。祭神は崇徳上皇だ。
 保元の乱に敗れ、讃岐に配流された崇徳上皇は、天下を騒擾させた償いと戦死者の供養のために、五部大乗経の写本を朝廷に提出したが、後白河天皇は受け取りを拒絶し送り返す。これに怒った崇徳は自らの舌先を喰い千切り、その血潮で呪詛の誓文を書き記した。崇徳はそれから髪も爪も伸ばし続け、生きながら天狗になったとされる。
 維新に向けての混乱期に孝明帝が崩御され、即位の礼は一年半以上も遅延した慶應四年八月に行なわれた。その直前に白峯神宮が創建された理由は、天狗となって世を乱し続けたとされる崇徳上皇の霊威を封じ込めるために、その御魂を讃岐の白峯御陵から乞い招いて、神に祀り上げるものだった。
▼崇徳天皇は平安末期の七五代天皇。父は七四代鳥羽天皇。しかし実際の父親は鳥羽天皇の祖父である白河天皇(七二代)だとされる。少なくとも、鳥羽天皇自身はそう確信していた。
 崇徳は保安四年(一一二三)、五歳のときに鳥羽天皇の譲位を受けて即位した。当時は天皇に実権はなく、上皇が権力を掌握する院政時代である。鳥羽上皇の父、堀河天皇は他界していたが、祖父の白河法皇が健在であったため、鳥羽は上皇になってもなお権力を振るうことができなかった。
 大治四年(一一二九)、白河法皇が亡くなると直ちに、鳥羽上皇の陰湿な復讐が開始される。鳥羽の正妻であり、白河法皇の愛人だった待賢門院璋子を徹底的に無視。新たな皇后を迎えたり、絶世の美女、美福門院得子を入内させたりする。この得子が男児を産み、親王が二歳になったところで、鳥羽上皇は崇徳を退位させ天皇に即位させた。七六代近衛天皇である。
 だが久寿二年(一一五五)、近衛は僅か一六歳で早世する。鳥羽上皇と得子の間には男児は一人しかいなかった。崇徳が再び天皇に返り咲くか、崇徳の嫡男が皇位に就くことが考えられたが、鳥羽上皇は祖父が自分の妻に産ませた崇徳を徹底的に嫌った。戸籍上は崇徳の弟にあたる、待賢門院璋子との間に儲けた雅仁親王を天皇にしたのだ。それが後に源頼朝をして「日本一の大天狗」と言わせしめた後白河天皇だった。
 鳥羽上皇が健在の間は、兄弟の反目は表面化しなかった。だが後白河即位の翌年、鳥羽上皇が崩御。崇徳上皇と後白河天皇の兄弟対立に摂関家の争いが複雑に絡み、保元の乱が勃発する。
 勝敗は呆気なく決し、敗れた崇徳は投降、讃岐に流される。崇徳は配流の地から京への帰郷を図るが、後白河側近の信西入道が頑としてこれを拒否。それを知った崇徳は「生きながら天狗の姿にならせ給ふぞ浅ましき」と評されるほど凄まじい怨念の塊となった。そして「われ深き罪に行はれ、愁鬱浅からず。速やかにこの功力を以てかの科を救はんと思ふ莫大の行業を、然しながら三悪道に投げ込み、その力を以て日本国の大魔縁となり、皇(すめろぎ)を取って民となし、民を皇となさん」と舌を噛み切って血潮の誓文を書き、海の底に沈めたとされる。
▼九年に及ぶ辛苦の配流の末に崇徳は亡くなり、白峯山に葬られることになった。「源平盛衰記」によると、崇徳の遺体を白峯山に運び込む途中で、一天俄かに掻き曇り、雷音鳴り渡り、豪雨となった。柩を石の上に降ろして雨が上がるのを待っていたところ、柩の中から真っ赤な血が零れ出し、石を赤く染めたという。
 崇徳が没してほどなく、疫病が流行り、公家貴族の病死が続発する。崇徳の怨霊のなせる業との風評が高まる中、後白河天皇はこれを鎮めるため讃岐院と称していた上皇に崇徳院の名を贈り名誉回復と鎮魂を図った。日本一の大天狗が魔界に棲む大天狗を怖れたわけだが、それでも崇徳の怨霊は鎮まらない。建久二年(一一九一)には後白河が病気に罹り、病気の理由は崇徳院の祟りだと自ら公言した。
▼崇徳の怨霊物語は後世まで伝わった。南北朝時代の動乱を綴った『太平記』という軍記物語は熊野修験道の分流である児島五流修験道の山伏、児島法師が著作編纂したとされる語り物だが、ここに金色の鳶の姿をした崇徳院が天狗の首領として登場する。その手下には後鳥羽、後醍醐等々、悲運の前世を送った天皇や僧侶たちが居並んでいる。
 時代がさらに下った江戸後期、上田秋成が著した読本『雨月物語』では、冒頭部に西行法師が白峯稜で崇徳の亡霊と出会った物語が掲げられている。その姿は「柿色いたうすすびたるに手足の爪は獣の如く生い伸びさながら魔王の形」。崇徳はここで「皇を取って民となし、民を皇となさん」という日が来るのを待っているのだという。
 明治維新を直前に控えた孝明・明治両天皇が崇徳の怨念を怖れて白峯神宮を建てた真の理由は、この呪詛にあったに違いない。その霊力は今日なお存在しているのではないか。(黄不動)