常夜燈索引

                    

 「日高見国」とは陸奥だった 
    (世界戦略情報「みち」平成23年(2671)4月15日第336号) 

▼平安時代の末期に編まれた歌学書『袖中抄』に以下の文がある。

 みちのくの奥につものいしぶみあり、日本のはてといへり。但(ただし)田村将軍征夷の時、弓のはずにて石の面に日本の中央のよしをかきつけたれば、石文といふといへり。

 延暦一六年(七九七)に征夷大将軍となり蝦夷討伐を行った坂上田村麻呂が大きな石の表面に矢尻で文字を刻んだとされるのが壺(つぼ)の碑(いしぶみ)である。
 西行の「みちのくの 奥ゆかしくぞ 思ほゆる 壺の石ぶみ そとの浜風」を初め、寂蓮法師や源頼朝、和泉式部など多くの歌人たちがこの碑を歌に詠み込んでいるが、実物の所在は長らく不明だった。
 江戸時代初期の寛文年間(一六六一~七二)に仙台藩多賀城近くの市川村から高さ一間余の石碑が見つかり、これが伝説の壺の碑とされていた。碑には平城京、蝦夷国、靺鞨国から多賀城までの距離、多賀城設置、改築年月が記され、末尾に天平宝字六年(七六二)一二月と建立日が刻まれている。
 松尾芭蕉はこの碑を見た感動を奥の細道に記しているが、江戸後期の薬学者であり旅行作家だった菅江真澄はこれを偽物と断定。青森県上北郡の坪集落近辺に埋まっているとの伝承に注目が集まる。明治九年(一八七六)六月から明治天皇が東北巡幸され、これに合わせて坪集落、千曳集落一帯が掘り返されたが、碑は見つからなかった。
 戦後になり昭和二四年(一九四九)六月、千曳集落と石文集落との間の川底に転がる大石を引き上げたところ、そこに「日本中央」の四文字が現れた。この碑は今日、東北町の保存館で展示されているが、坂上田村麻呂が矢尻で文字を刻んだ本物の壺の碑か否か、結論は出ていない。
▼蝦夷征伐で名高い坂上田村麻呂は延暦二一年(八〇二)に胆沢城を、翌年に志波城を築いているが、青森には足を踏み入れていない。
 平城天皇と嵯峨天皇が争った薬子の変(弘仁元年、八一〇)で平城上皇側に就き囚われの身となった武将の文室綿麻呂は、坂上田村麻呂の助命嘆願により命を救われ、陸奥出羽按察使に任命され蝦夷征討の任に当たっている。東北町に辿り着いて矢尻で文字を刻んだのは文室綿麻呂と考えて間違いない。
 問題は碑に刻まれた「日本中央」の文言である。都から遠く離れた蝦夷の地になぜ「日本中央」の文字を彫り入れたのか。袖中抄の記述を見る限り、平城京の天皇や貴族たちは「石の面に日本の中央のよしをかきつけた」ことを異常とも不思議とも考えていない。
 戦前の歴史学者である喜田貞吉博士は千島列島全域から沖縄までが日本であるから田村麻呂がこの地を日本中央と記したことは不思議ではないとした。だが平安期に朝廷が千島列島全域を領地と認識していたとは信じ難い。また、安倍貞任の子孫である津軽安東氏が「日之本将軍」を自称し、天皇家もこれを認めていたとの記録がある。これを以て東北一帯を日之本と呼んでもおかしくないとの説もあるが、安倍貞任は坂上田村麻呂より二六〇年以上後の人物。その末裔が日之本将軍を名乗ったとしても、田村麻呂が「日本中央」と記した理由にはならない。
▼そもそも日本という国号はいつ成立したのか。七〇二年撰述の『唐暦』に「日本国その大臣朝臣真人を遣わし方物を貢ぐ」と記述があり、日本という国号が使われた最初の公文書とされる。日本の国号成立に関してはこの他「飛鳥浄御原令」(天武一〇年、六八一)が最初とする説等異論は多い。高句麗の僧、釈道顕が著し『日本書紀』編修の元資料の一つになったとされる『日本世記』は天武朝初期、西暦六七〇年代前半の書だが、この時すでに日本の国号が存在した可能性もある。
『唐暦』には「日本国は倭国の別名なり」とあり、大和政権が国号を倭から日本に改めたとするのが一般的だ。しかし『旧唐書』には「日本は舊(もと)小国にして倭国の地を併せたり」との記述が見られ、これに従うと古くは倭と日本は別の国だったことになる。
▼古代東北王朝を綴った『東日流外三郡誌』は偽書と認定されているが、その内容には幾許かの真実がある。縄文中期に巨大な木造建築を完成させた三内丸山遺跡が示す通り、古代において東北は日本文化の中心地であった。『東日流外三郡誌』同様偽書説が強い『秀真伝』(ほつまつたへ)には古代東北が「地の高天原」だとする記述がある。ここでは天地開闢後に出現した最初の神を国常立尊とし、天の理想郷である常世国から「トホカミエヒタメ」という八神が各地に天降ったとされる。また地の常世国となった処が日本の原点で、日高見国という。『日本書紀』景行天皇二七年(九八)、武内宿禰の報告中に「東の夷の中に日高見国有り」とあり、これが日高見国の文献上の初出。同四〇年に日本武尊の東国遠征の帰路、陸奥国から常陸国に入った処で「日高見国から帰りて」とあり、勿来の関以北を日高見国としていた。
 日本の原点である日高見国すなわち陸奥国が復活しない限り、理想郷たる常世国の再生はない。 (黄不動)