常夜燈索引 

                    

  河豚計画と犬塚きよ子 ③
     (世界戦略情報「みち」平成24年(2672)6月1日第361号) 


▼昭和一四年、上海の犬塚特務機関はフリーメイソンの拠点三ヶ所を強制捜査し、祭祀用具、進級問答集等々膨大量の貴重品を押収した。その品々と犬塚きよ子は終戦直後のGHQによる懸命の捜索にも関わらず姿を掻き消した。押収物を極秘軍令品として積み込み、荷と共に彼女が上海から東京に向かったことは証言により把握されていたらしい。大森の犬塚邸は徹底的な捜索を受けたが何一つ出てこない。何より犬塚きよ子が上海を出た記録も東京に帰着した記録も存在しなかったのだ。
「犬塚と一緒になったのは上海に着いて間もなくの話なの。でも緊迫した状況下で婚姻届を提出する余裕はなかったの」
 戸籍上彼女は結婚しておらず、旧姓で東京に戻り生活を続けていたのだ。
「年老いた母が難儀をしていまして」
 一度は犬塚邸に運び込んだ重要資料を空襲から守るために実家の防空壕に移動した。その実家には老いて動きも儘ならぬ母が一人で生活していた。連日のように続く空襲、挙げ句に終戦、そして戦後の混乱。母一人娘一人で生き抜いてきた新明きよ子が病弱な母を置き去りにできる訳がない。まして終戦直後に犬塚惟重は戦犯として捕らえられマニラ送りになっていた。慎ましやかな母娘が耐え忍んで生き抜いた数年間は、結果としてGHQの執拗な捜索からの目晦ましとなった。
▼前号にも記した通り筆者は何度も犬塚きよ子氏とお会いしお話を伺っている。ところが肝心な話は殆ど記憶にない。広い洋間が妙に重苦しく冷え冷えとしていたことが思い出される。大きな丸テーブルの上には資料が積み重ねられ、木製の黒い書棚には儀式用の奇妙な衣装や冠、宝石が鏤め(ちりば)られた多数の紋章、「無常の象徴」とされる髑髏や骸骨の写真、左頁に奇妙な図柄が描かれ右頁には細かな英字が並ぶ進級問答集もあった。そのどれもが鈍(おぞ)ましい妖気を放ち、部屋全体に冷気を満たしていた。庭に面してガラス戸があったのに部屋が薄暗く感じられたのも、収蔵された物々のためだったのかもしれない。
「断頭台に座して大砲に火薬を注ぐ」
 物騒な文言だがこれはマソン結社独特の言い回しだ。断頭台とは食卓のこと、大砲とはグラス、火薬はワインを意味する。こうした暗号のような言葉を彼女は英語仏語で教えてくれた。印象に残っているのは「雨漏りがする」という言葉。これは部外者又はスパイが紛れ込んでいるという意味だが、中国の幇も同様な言い回しをする。
▼昭和一〇年の『外事警察資料』にはフリーメイソンの起源として薔薇十字説、聖堂防衛会説、石工組合説等九つの説を並べた上で真実は不明とし、現在のメイソンは民族の伝統、愛国心を否定、「物質とカネ即ち生産と機械のみが人類の幸福を生む」と考えており、その具体例が「米国の資本主義とソ連の共産主義」だと断定。各国メイソンの活動を分析していたという。実はこれはネットから拾った話で如何にも胡散臭いが、この資料には記憶がある。犬塚邸で確かに現物を見ている。四六判程の薄い小冊子で表紙には四角囲みの中に「秘」と記され、中身は漢字片仮名文でフリーメイソンに関して綴られていた。昭和初期或いはそれ以前から政府、軍部の一部が極東政策展開のためにユダヤ資本導入を真剣に検討し、安江、酒井等がその任に当たっていた。その一方でフリーメイソンに対する警戒心を怠ることはなかったと思われる。
▼犬塚惟重は『河豚計画』の名付人とされる。しかし犬塚きよ子氏の口から河豚計画の名を聞いた記憶はない。名は聞かなかったがユダヤ人の東亜侵出に関しては幾度も聞かされた。日清・日露戦役とロシア革命のすべては欧州から東亜に掛けてユダヤ人が自由に往来できる動脈を構築する目的で仕組まれたといった話だった。
 朧気な記憶だけで語ることは慎むべきことと先人先輩から厳命されているが、敢えて大誤解を承知で記すと、彼女はこれに関連して日清戦争後の露清密約や東支鉄道の物語、更に時代が下がってスターリンや毛沢東、周恩来そして蒋介石の名を出したと思う。国民党軍による上海空爆が意図的誤爆だったとの話もあった。恐らく昭和一二年の国共合作とそれに続く第二次上海事変の話だったのだろう。浅知恵で蒋介石の弁解を口にして、言下に否定されたことを記憶している。満洲や上海に大量のユダヤ人が流入したことは単にナチスドイツの迫害だけが理由ではなく、ユダヤ人の意図があったという。こうした流れとは脈絡が繋がらないのだが、神戸に重要な何かがあるような話もあったように思う。
 これほど重要な話を漠然と聞き流し記憶もしていないのだからお叱りを受けるのは当然だが、覆水盆に返らず。今となっては後の祭りである。しかし河豚計画は単に歴史上の遺物ではない。二一世紀の今日、新たな河豚計画が始動しているとの噂も耳にする。ロシア、支那そしてユダヤという巨大な波を前にして、日本の庶民はどこまで叡智を絞り出せるだろうか。先人の経験に充分学んで対処すべきだ。(黄不動)