常夜燈索引 

                    

 明石元次郎配下漆原松吉のこと
       (世界戦略情報「みち」平成24年(2672)11月15日第371号) 

▼ハワイは漢字で「布哇」と書く。一九五九年に米国五〇番目の州となった布哇州は年末年始に日本の芸能人等が大挙して訪れる大観光地。八つの島と一〇〇余の小島から成るが、州都ホノルルがあるオアフ島、最大の面積を誇るハワイ島、二番目に広いマウイ島の三島が州人口の九五%を占める。
 西欧人として初めて布哇を見つけたのは英海軍士官キャプテン・クックで一七七八年のこと。クックが見つけたのは布哇州三番目の広さを持つカウアイ島で、統一王朝の首都が地理的中心となるオアフ島ホノルルに置かれても暫くは此の島の賑わいが続いた。
▼三王国鼎立の布哇を白人伝来の銃器で統一したのはカメハメハ一世。布哇王国建国は一七九五年、布哇統一は一八一〇年のことだ。近代化を急ぐ布哇王国は砂糖キビ増産輸出に励むが、巨大農場は白人投資家の所有物となる。一八五二年以降労働力補充を目的として大量の支那人を招いたが、彼等の多くは農場から脱出して独自に商売を始める始末で、支那人以外の労働力を求めるようになる。斯様な折りの一八六〇年(万延元)、締結後の日米修好通商条約批准書交換の為に派遣された外国奉行新見正興、村垣範正が乗った米軍蒸気船ポーハタン号が布哇に途中寄港する。同船警備の名目で同行した船が咸臨丸で、勝海舟、福澤諭吉、中濱万次郎等が乗り込んでいた。
 此の時国王カメハメハ四世は徳川幕府宛に労働者供給を請願する親書を手渡したが、混乱期にあった日本側は是に応えていない。その後カメハメハ五世の一八六六年(慶應二)に布哇王国領事の身分で横浜に滞在した蘭人バン・リードは幕府と交渉の結果三〇〇人の渡航許可印章の下附を受ける。然し直後の大政奉還、王政復古、明治改元の嵐の中で新政府は幕府発行の渡航許可を無効と決定。既に準備を整えていたバン・リードは明治元年(一八六八)に一五〇人を布哇に密航させる。この密航者を巡り日布両国間に亀裂が走ったが、明治四年には日布修好通商条約が締結され、明治一四年に布哇カラカウア王が来日して明治天皇と会見し移民協定に合意する。この折り布哇側は山階宮と布哇王女との婚姻を求め天皇家との姻戚関係を画策したが、対米関係悪化を恐れた日本政府に拒否されている。その後明治一八年に移民条約が結ばれ、政府主導による計画移民が始まる。明治一七年に政府が募集した第一次布哇移民定員六〇〇名に対し三万名近い応募があったと記録される。
▼キャプテン・クックが見つけたカウアイは布哇諸島最北部にある円形の島。太平洋を越えた貿易風は山頂に一年中雨を降らせ、この為カウアイは水と緑が最も豊富な島となり、北部では山頂から流れた霧により毎日虹が見られる。南部では雨は夜中にしか降らず傘を知らぬ子供も多い。疎(まば)らな海水浴客に混じって海亀や海豹(アザラシ)が浜で昼寝をし、沖では海豚(イルカ)が泳ぎ稀に鯨の潮吹きも見物できる。観光客が喜ぶ風光明媚な島の建造物は三階迄と制限され、島全体に別天地の様な長閑さが漂うが、天国の様な此の島で一九二四年秋に支那マフィアによる大戦争が繰り広げられ街が血に染まった。阿片を巡る戦争である。
 布哇に支那人が大量移民を開始した一九世紀中葉以降カウアイ島の南部港町ハナペペに布哇最大の支那人街が形成され支那と米大陸を繋ぐ阿片密輸中継地点となっていた。一九二四年秋の暗黒街戦争で支那マフィアは激減したが闇世界は生き延び、然し二〇〇六年に島を襲ったハリケーンで街は終に壊滅。以降州政府はハナペペ再生を指導し今日では昔日の面影は見られない。
▼日清戦争勝利で日本が台湾割譲を受けたのは明治二八年(一八九五)。後藤新平が阿片漸禁政策を採り日本国内産の阿片に切り替えたのが明治三二年(一八九九)。以来日本の芥子生産は拡大され、大正元年(一九一二)に国産モルヒネ製造に成功した星一の活動もあり芥子畑は内地だけでなく朝鮮そして大陸へと広がる。支那人が扱う阿片は当初は粗悪な印度産だったが昭和に入る頃から上質な日本産が主流となる。布哇カウアイ島の支那暗黒街に流れた阿片は印度産と想像できるが、密輸入品の質量は皆目見当がつかない。なぜ一九二四年秋に阿片をめぐり支那マフィアの抗争が起きたかも不明だが推測の手掛かりが一つある。
 一九二四年七月一日、米連邦法「絶対的排日移民法」が成立し日本人の締め出しが始まる。同法に関しネット上の解説はその正当性を主張し日本人のみの排除を狙ったものではないと強弁する。確かに同法を切り取って読む限りその主張にも頷けるが、実際は一九一三年(大正二)のカリフォルニア州「排日土地法」で日本人の土地所有を制限し一九二〇年(大正九)の「第二次排日土地法」では農地の貸借権さえ禁止、在米日本人八割は血と汗で開墾した土地を放棄し帰国した。「絶対的排日移民法」がこの延長上にあり日本移民の財産収奪を目的としたことは確かである。日本人の布哇入国が全面禁止となった数ヶ月後に勃発した支那人抗争の陰に同法成立が関係したことは間違いあるまい。   (黄不動)