常夜燈索引

                    

 先帝閼伽流山城行啓の謎
   (世界戦略情報「みち」平成25年(2673)1月15日第374号) 

▼建武三年(延元元年一三三六)湊川の戦で楠木正成を失った後醍醐天皇は比叡山に逃れ、三種の神器を持たぬ光明天皇が践祚されて北朝が成立。後醍醐帝は吉野に遷都し南朝が興り天に二帝を戴く南北朝時代が始まった。抑の(そもそも)原因は八代前の後嵯峨天皇にある。後嵯峨天皇は三歳になった第二皇子久仁親王を後深草天皇に即位させたが、後に六歳下の第七皇子恒仁親王を溺愛。親王一一歳の時に亀山天皇として即位させる。これが後深草=持明院統(北朝)、亀山=大覚寺統(南朝)の対立となり南北朝へと繋る。遠因は後鳥羽上皇が討幕を求め挙兵した承久の変にあり、敗れた後鳥羽、順徳、土御門上皇は島流しとされた。後嵯峨天皇は土御門上皇の第二皇子。一歳で父と共に流罪となり皇族公卿とは断絶。その断絶が幕府に歓迎され、母が執権北条氏と縁戚関係にあった事も重なり、後嵯峨天皇は二三歳で突如阿波から招かれ即位。帝王学を知らず即位された事が後世に南北朝対立という構図を生んだ。
 承久の変以降皇位継承は幕府によって管理されたが幕府の実権は執権北条氏にあった。北条氏とは歴史上極めて謎の多い家系で調べれば調べる程理解不能となる。北条氏の家紋は鱗紋。蛇の鱗を象り正三角形は本家、扁平二等辺三角形は分家筋とされる。北条氏の正三角形鱗紋は大和大神(おおみわ)氏に繋がるが、大神氏は記紀から探れば大物主神の末裔。北条氏は一説には天皇家の分家とも大和朝廷に敗れた大君ともいわれるが、何れが真実か封印された歴史が解き明かされる事はない。
▼吉野朝が開かれた建武三年、信州の豪族香坂小太郎入道心覚は後醍醐帝を奉り信濃牧城で挙兵したが、北朝方連合軍に敗れ伊那大河原に逃げ延びる。七年後の興国四年(一三四三)、香坂高宗は伊那大河原城に後醍醐天皇の皇子宗良(むねなが)親王を迎える。
 宗良親王は三六人ともいわれる後醍醐天皇の子供の一人で、若くして僧門に入り一九歳で天台座主となったが、父帝が討幕を企図して挙兵した元弘の変に参戦し、捕らえられ讃岐に流される。幕府が倒され建武の中興が成ると再度天台座主に戻るが、南北朝対立を迎えて還俗し南朝武将として活躍。大和から伊勢に入りその後各地を転戦し伊那の豪族香坂高宗に迎えられ大河原城に入る。この地に三〇年滞在した事から信濃宮、幸坂宮とも称された。
 信濃牧城で立った香坂心覚は清和天皇の末裔滋野一族の傍系とされるが一説には北条氏の縁戚ともいう。香坂心覚挙兵の折り隣接する信州麻績御厨(おみみくりや)で北条高時の弟泰家も兵を挙げた為、信州一帯の南朝方を北条残党と見做す事があり、故に滋野一族の香坂を北条氏縁戚と捉えた可能性が高いが、何分謎に包まれた北条氏の事で真実は不明だ。宗良親王を伊那に迎えた香坂高宗は心覚の甥と記録されるが正確な素性が不明である。何れにしても宗良親王を奉じた香坂高宗は伊那大河原城から駿河、甲斐等へと遠征して北朝軍と戦う。
▼上信越自動車道を下り碓井軽井沢を越えると間もなく閼伽流(あかる)山トンネルを潜る。このトンネルの上に標高一〇二七メートルの閼伽流山がある。車で下を通り抜けたのだから判り易いと思って訪ねると、道に迷う事が多い。佐久市から軽井沢に向かって南東に大きく迂回し香坂集落を目指す。香坂氏発祥の地とされるこの集落は余所者を寄せ付けぬ冷然な空気に包まれている。閼伽流山は集落外れの天台宗明泉寺脇から登るが、この寺は天長三年(八二六)に入唐八家として崇敬される天台座主慈覚大師円仁が開基した名刹。九世紀当時一帯に清冽な水を湛えた湖があり閼伽流の名が付けられたという。因みに閼伽とは仏教用語で清らかな供養水のこと。此の湖を琵琶湖に見立て延暦寺の位置に明泉寺を創建したとも伝えられる。寺から閼伽流山頂までの登山道には屹立した巨岩が幾つも聳えるが、山頂近くの石組は数百年前に堅牢な山城が存在したことを物語る。宗良親王と共に香坂高宗の軍勢が此の城に立て籠もり北朝方との長期戦を戦い抜いた証の一つでもある。先帝陛下は摂政宮時代に閼伽流山城跡に行啓されている。
▼先帝陛下一一歳の年に祖父明治天皇が崩御。父が践祚され皇太子となられたが天皇の体調は優れず欧州歴訪後の大正一〇年に二〇歳で摂政宮に就かれる。大正一二年春には台湾を視察され夏には休養目的で軽井沢に向かわれた。此の時大正天皇は心身共に不調で日光御用邸で御静養中。摂政宮のご負担は愈々重大と推測されるが、なぜ斯様な状況下で南朝方の城址に行啓されたのかは不明。明治天皇擦り代わり説に従えば、昭和天皇は南朝系譜ではあるが公式的には飽くまでも北朝方。
 摂政宮の閼伽流山城行啓は大正一二年八月二〇日。本来大きく取り上げられ話題になって然るべきだが、直後の八月二四日午後に首相加藤友三郎が逝去。軽井沢から箱根に向かわれる予定だった摂政宮は政治的空白を懸念し二五日に急遽皇居に入る。その七日後、首相不在の帝都を未曾有の大震災が襲い、摂政宮と閼伽流山の物語は殆ど知られることもなく忘れ去られていった。(黄不動)