常夜燈索引

                    

 伊藤博文暗殺事件の深淵 下 
     (世界戦略情報「みち」平成25年(2672)3月15日第378号) 

▼明治四二年一〇月二六日に哈爾濱(ハルビン)駅で伊藤博文が狙撃された事件に関し、処刑された安重根は真犯人ではないとする説がある。安重根以外の人間が哈爾濱駅二階食堂付近から仏式騎兵銃で狙撃したとする説と、実行犯は安だがその背後に巨大な闇組織があったとする説だ。背後として露国やロスチャイルド、さらには日本の右翼団体なかでも杉山茂丸説が強い。これらを整理して暴論を排除しておく必要がある。
▼伊藤の哈爾濱行、露国蔵相との会談は極秘情報だったとする話もあるが此れは論外。韓国各紙は伊藤の旅程、目的を詳細に報じ駅到着予定時刻も第一面冒頭に掲載。被弾直後伊藤は「三発當った、誰だ」と叫び正面に現れた男の銃弾を浴びたと発言。一発は右上膊を穿通して第七肋間に水平に射入、二発目は右肋関節を通して第九肋間に、三発目は上腹部中央右より射入し左腹部の中に、何れも盲管銃槍で弾は体内に留まった儘。医師は三弾全てが致命傷になったと判断。随行者の室田義文(よしあや)は遺体から仏式騎兵銃弾丸摘出を現認としているが、伊藤公の尊厳を損なうとの理由で司法解剖は行なわれていない。最後尾を歩いていた室田は自身も五発被弾したというが疑問。室田の談話が掲載された『室田義文翁譚』は事件から二九年後、室田没後に翁から話を聞いた者たちの思い出話として刊行された書で、本人の知らぬ處で勝手に修飾増幅された可能性が高い。
 安重根は七発を撃ち尽くし伊藤に四発撃ったと自供。安は伊藤の顔を知らず先頭を歩く者が伊藤だと思い四発連射。間違っている可能性もあると、後方から歩く二人に三発を速射した直後に露国官憲により取り押さえられた。裁判及び外務省記録では伊藤が三発被弾、秘書官森泰二郎、哈爾濱総領事川上俊彦、満鉄理事田中清次郎が手足胸等に貫通弾とある。相当後方に居た満鉄総裁中村是公も二発被弾との説もあるが公式記録に中村被弾はない。他にも安狙撃を否定する情報等はあるが、現場に居合わせた露国蔵相、外相、陸相、アムール総督も詳細な証言を残し、また在留邦人の供述もすべて安重根による単独狙撃としており、疑念は一切存在しない。
 問題は安を操った黒幕が存在したか、黒幕は何者かである。日露戦争を含む対露謀略の首謀者として露国特務筋が伊藤を処刑したとする説もあるが、当時の国際情勢を見誤った戯言。露側が満鉄権益に関し伊藤を最大の交渉相手としていた状況下での暗殺は考え難い。ロスチャイルド説は理解もできるが具体的証拠は一切ない。日本の右翼組織、中でも杉山茂丸首謀説は納得できるが憶測に憶測を重ねた論で物証は無い。謀略説は好奇心を煽るが注意すべきは悪意ある捏造が流布される点にある。処刑された安重根を正視する作業も肝要と思われる。
▼事件直後僅かでも関与の可能性がある者は二〇余名とされ一六名が訊問対象となり最終的には安重根他八名が容疑者として旅順に護送された。看守として死刑執行まで安を見守り続けた憲兵千葉十七は当初は憎悪を滾(たぎ)らせていた。然し安の起居行動全般を見るに異様な清廉さを感じざるを得ない。会話を交わす機会は殆ど無かったが訊問や調書を通して千葉は安の素性を理解する。安の祖父は鎮海郡守を勤めた両班(ヤンバン)。老いた母と妻、二人の幼子を残し明治三八年の日韓保護条約締結後に義兵団に入り、二年後には参謀中将司令官として豆満江周辺で日本軍と数度の銃撃戦を繰り返す。露国の支援協力が細り、より過激な地下活動展開を求めて明治四二年正月に同志一二名で断指同盟を結成、安は盟主となっていた。維新後、薩長政権により辛酸を嘗めさせられた故郷に通じるものが韓国にある。正義は新政権にあったが疲弊困窮するのは民のみ。語らずとも千葉の思いが安に伝わったのだろうか、その後二人は気脈を通じさせる。獄中で安が執筆した『東洋平和論』は今日も正論として受け止める事ができる。
 安の主張は訊問裁判を通して微塵も変わらなかったが、最後の一瞬に看守である千葉十七に対して、自身に仁の心が欠けていたと頭を下げ、為國献身軍人本分(國の為身を献げるは軍人の本分)と認めた書を手渡す。以来千葉は死ぬまで安重根を祀り合掌を続ける日々を送る。
▼安重根は明治四三年三月二六日に処刑。同年八月、日本は韓国を併合する。韓国併合はブリタニカの英語表現では「annexation」と表現される。植民地化「colonization」とは異なる同等合併を意味し、イングランドがスコットランドを合邦(一七〇七)した時と同表現。日韓併合の根底に日韓同祖論があった。古代史の際限の無い物語の中に異論は多々あるが、同祖と語る意義は存在する。日韓併合が百年も続いていれば両民族の理解は遥かに進んだと思われるが、今となっては叶わぬ夢。事大主義と戦後教育で反日感情を露にする半島の民に、同水準で敵愾心を燃やせば安重根の『東洋平和論』は遠ざかるのみ。安の遺墨は昭和五四年に韓国に渡されたが、千葉十七の思いを引き継ぐ作業は微かながら今日尚続いている。(黄不動)