常夜燈索引

                    

 絵巻物と日本語の奇跡 
 (世界戦略情報「みち」平成25年(2672)4月15日第380号) 

▼アレキサンダー大王配下のマケドニア人が二〇〇年以上エジプトを支配した王朝の初代プトレマイオス一世は首都に世界中の書物を集めようと考えた。古代世界最大の図書館はあらゆる種類の書を求め、地球の直径を計算したエラトステネスや天動説を唱えたプトレスマイオス、数学の定理でお馴染みのアルキメデス等がこの図書館で学びヘレニズムの学術研究に多大な功績を残した。アレクサンドリア図書館には最大時に七〇万巻のパピルス巻子本(かんすぼん)が所蔵されていたが、紀元前四七年のシーザーの侵攻時とその前後の内戦等により焼失した。
 アレクサンドリア図書館の蔵書形式であった巻子本とは巻物形式の書で、洋の東西を問わず古代における図書は殆どがこの形態。紙がない時代に文字情報は木簡、竹簡に書かれ紐で編んで保存された。これが巻子本の原型で、紙が作られた後も保存、閲覧の利便性から広く用いられた。書を編む、編輯の語源は竹簡を編むに由来する。
▼わが国には古くから漢字が伝わり仏教伝来後写経が盛んになる。現存最古の書は伝聖徳太子筆の『法華義疏(ほつけぎしよ)』(七世紀初、皇室御物)だが奈良時代には多くの経典巻子本が編まれたと考えられる。現存する最古の絵入り巻子本は八世紀に編まれた『絵因果経』。『法華義疏』は六世紀初頭の梁の『法華義記』に酷似しているが、下段に経文を置いた『絵因果経』の上段に描かれる絵は唐絵と呼ばれる支那の作風。然し同様の作品は支那大陸には現存しない。九世紀末に遣唐使が廃止されて以降、唐絵はわが国で独自の進化を遂げる。素材を支那に求めずわが国固有の人物や自然を描く大和絵は仮名の出現と同時期に劇的な進化を見せる。雪原に降り立つ鶴一羽を描く中に喜怒哀楽の感情を織り込む。一七音に作者の心象風景を描く俳句にも似た大和絵の技法が仮名表記と関係することは直観的に理解できるが、論理的に説明するには膨大な紙幅を要する。同様に仮名出現後に不可解な進化を見せたのは、絵入りの巻子本、絵巻物である。
▼八世紀に著された『絵因果経』以降数多の絵巻物が編まれたが九~一一世紀に描かれた絵巻は現存しない。遺るのは一二世紀末の四大絵巻(源氏物語絵巻、伴大納言絵巻、信貴山縁起、鳥獣人物戯画)と同時期又は以降に描かれた作品群だが、絵と詞を配するという構成は当時世界に類例を見ない。更に注目すべきはその描写法にある。
 絵巻物は天地一尺前後が主流だが、中には五寸程度の作品もある。長さは数尺或いは数間に及ぶ。多くは詞の(ことば)後に絵が描かれるが『鳥獣人物戯画』や『伴大納言絵巻』のように詞が無いものもある。『鳥獣人物戯画』は鳥羽僧正の作とされるが、実際は数人の筆により描かれている。ここには鳥獣が動き回る残像あるいは動きを示す効果線、流線が描かれるが、この表現法は史上初であり、この絵巻を世界初の漫画とする所以でもある。『信貴山縁起』は軽妙な筆致で描かれた霊験譚だが、宅鉢が空を飛び校倉造りの蔵がその鉢に乗り、米俵が後を追うといった物語の流れの中に動作や時間の経過を表現しようとする実験的画風が見られ、こちらを世界初の漫画とする説もある。
『伴大納言絵巻』には「異時同図法」という描写法が採られ、その後の絵巻にも多々見られる。異時同図法は紀元前四世紀頃の印度の仏画浮彫が源とされるが、日本の絵巻は比較にならぬ程洗練されている。同一画面上で時間が経過し、同一人物が異なる行動を見せる。時の流れの中で切り取られる瞬時がいつも現在となり、あたかも神道の中今思想を図像化した感もある。
▼戯画は落書に過ぎない。落書が仮名文化と同時期に進化発展した点は注目に値する。七世紀に成立した萬葉仮名は、上代日本語の発音を漢字に宛てた借音と、意味を生かして漢字を宛字した借訓との組み合わせで構成される。だが、独自の日本語を表記する必然性から小さな漢字を添えたり漢字の一部を用いたりするようになり、平仮名、片仮名に発展した。仮名誕生には神代文字説等もあるが、いずれにしても仮名登場以降には大和言葉を仮名で表記する方法が一般的となり、文章に擬声語が頻繁に登場するようになる。八世紀の『古事記』の中にも擬声語があり、世界の言語にも存在するが、日本語の擬声語の多さは他言語の数十倍あるいは百倍以上とされる。公式文書が漢文で書かれて以来今日に至るまで、擬声語は幼児言語の延長と見なされ落書同様深く研究されることが少ない。擬声語が心情の細やかな襞と時間の経過を表現することが、仮名で書かれた詞に対応する絵巻の図法を劇的に進化させたと考えるのが当然だろう。
 歩き方を表わす擬声語を並べると、速度だけではなく心情も理解できる。例えば、ずるずる、そろそろ、ゆるゆる、しずしず、おずおず、ふらふら、おろおろ、びくびく等だ。なぜ膠着語である日本語にこれほどまで擬声語が多いのか。それが心理や速度等をあやふやながら規定するのはなぜか。日本語の奇跡を考えるには、新たな切口も必要だろう。 (黄不動)