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   日本語を守り伝える使命 
    (世界戦略情報「みち」平成25年(2673)6月15日第384号) 

▼昭和五一年に日本で発見された成人T細胞白血病(ATL)ウイルスが俄然注目を集めるようになったのは七年後の昭和五八年にエイズウイルスが発見されてからだ。ATLはエイズ同様、輸血、性交等によって感染するが、親から受け継いだ場合を除くと発病率は非常に低く、本人が気づかぬうちに死を迎えることが多い。世界的に見るとATLウイルスキャリアは日本以外では北米のイヌイット、ネイティブ・アメリカン、カリブ海地域、南米南端部、アフリカ大陸の中南部一帯、豪州アボリジニ、台湾先住民、ニューギニアやハワイ諸島等、辺境に多く見られる。支那や朝鮮半島には皆無で、ユーラシア全域でも北欧のラップ人に僅かに見られるのみ。ATLは遙か大昔にアフリカ大陸北部で発生、人類の進化拡大に伴って世界中に広まり、辿り着いた最果ての地にだけ残ったと考えられる。日本人にATLキャリアが多いという事実は、拡散を続けた人類の終着駅の一つが日本列島だったことを物語る。
▼世界の言語は大別して屈折語、孤立語、膠着語、抱合語の四つだ。屈折語とは英米独仏露の欧州言語やアラビア語等、孤立語は支那、越南、クメール等の言語、膠着語は朝鮮、満洲、蒙古、ウズベク、カザフ、トルコ等ユーラシア中部を貫く地域の言語で、抱合語はエスキモーやアイヌ、マヤ語等の古代言語を指す。但しこれ等は微妙に重なり合い、明確に区別することは難しい。
 名詞に格変化がなく、助詞や接頭語、接尾語等により文意を表す言語形態を見る限り、日本語が膠着語であることは間違いない。然し膠着語圏の民が持つ文化的特性が日本人に見られない例もある。膠着語圏では古代から宗教や文化、習俗に寛容で、民族的特性としてバイリンガルが常識。だが膠着語圏にありながら日本人の大多数は外国語を不得手とする。角田忠信によると、日本語を話す者の言語脳は外国語を拒否するように動くという。
 単語の類似が数百数千あるからといって、言語や民族、宗教が親戚関係にあることの証明にはならない。それは当然だが日本語がアイヌやマヤといった古代言語と親近性があることは直感的に理解できる。数詞のヒト・フタ、ミー・ムー、ヨー・ヤーといった倍数音韻、ナナ・ココといった特殊奇数に充てた畳語は特徴的だが、対となる身体部位の名称、耳、頬、乳、腿にも抱合語の影が残る。日本語の中に非常に古い言語が混ざり込んでいることは間違いない。
▼南方から島伝いに或いは大陸や半島から、列島には様々な民が流れ込んできた。何者が日本語を持ち込んだのか或いは複数の言語が合体し醗酵醸成したものか、確実な証拠は誰にも提示できない。飛鳥の御代に来朝した高句麗の使節は通訳を必要としなかったとも伝えられる。微妙な感覚まで伝えられたか、津軽男と河内女の会話程度だったかは不明だ。日本と高句麗とは扶餘国から分離したとの説もあり、比較言語学では扶餘語から高句麗語と古代日本語が生まれたとする説が強い。
 柿本人麻呂の「笹の葉は深山もさやにさやけども」という有名な恋歌は万葉仮名では「小竹之葉者 三山毛清尓 乱友」と表記される。では飛鳥の人々はどの様な音声で詠んでいたか。片仮名で表すと「ツァツァノファファミヤマモツァヤニツァヤグェドモ」といった音に近かったと考えられている。今日の満洲、北朝鮮の言語或いはツングース系のあらゆる言語とは似ても似つかぬが、日本人の感覚とすれば強い方言程度で、理解できない訳ではない。六、七世紀の言葉が二一世紀の現在まで生き延びていることを素直に喜び、先人先輩に感謝すべきであろう。
▼虫と聞くと非日本人は蚊、蠅、蜂といった害虫を連想し、日本人は鈴虫、松虫、蟋蟀(こおろぎ)等を思い浮かべる。日本語を話す者は虫や動物の鳴き声、せせらぎや風の音等の自然音を言語脳で聞き取り、非日本語圏の人間は自然音を雑音と受け取る。これは遺伝ではなく、幼児期を日本語圏で過ごしたか否かに係る。然し日本語脳を持つ日本人でも、その能力を著しく損傷する場合がある。例えば英語を理解する者が四〇分間英語を聞き続けると、それが音曲であろうと、その後六〇分から一二〇分間は非日本語脳になるという(角田忠信『右脳と左脳』)。奇妙なことに、理解不能な外国語を耳にすると日本語脳はそれを雑音と認識し、右脳で処理する。非日本語脳では自然音を雑音と認識するが、理解不能であろうと、人が口にする言葉は言語野で処理する。非日本語脳を持つ外国人は母国語以外の言語を左脳で言語として処理する。彼等が語学に強い理由はここにあると考えられる。
 恐らくは遙か昔にユーラシアを貫いて古代言語が存在していた。その死滅した言語の残滓(ざんし)が東の果て日本列島に生き延び、鳥獣の声、水や空気の流れまでも言葉と認識する奇妙な脳を作り上げた。世界唯一の特殊な言語が日本列島に残存するのはなぜなのか、その真の意味を理解するまでは、この言語を守り続けることがわれわれ日本人の使命ではなかろうか。 (黄不動)