常夜燈索引

                 

  日本漫画雑誌の事始め 
    (世界戦略情報「みち」平成25年(2673)8月1日第387号) 

▼日本初の漫画雑誌が創刊されたのは文久二年(一八六二)春。英文の漫画雑誌『ジャパン・パンチ』は横浜山下の外国人居留地に住む二〇〇〇人全員が読んだといわれる。
 嘉永七年(一八五四)の日米和親条約締結で鎖国が終了。安政五年(一八五八)には米英仏蘭露五ヶ国と修好条約を結び、開港地に外国人居留地設置が決定。長崎、箱館、新潟は条約通り居留地が作られたが、神奈川と兵庫は遥か離れた寒村、横浜村と神戸村に居留地が定められた。条約違反と怒る外国勢に対し幕府は「横浜は神奈川宿の内」と詭弁を弄し力づくで押し切った。神奈川宿は東海道に面し、居留民との間に事件が起きると幕府は予見。事実文久二年には大名行列に英人が乱入し殺傷される生麦事件が起きている。また兵庫港は尊王攘夷思想が根強い京大坂に近いため、人も疎らな神戸村が居留地に選ばれた。『ジャパン・パンチ』は居留地で大評判で、外国人が奪い合うように手にする絵入りの雑誌は日本人も知る処となり、独特の画風はポンチ絵と呼ばれるようになる。
▼日本人自身の手による漫画雑誌は明治七年六月に仮名垣魯文と河鍋暁斎の手によって創刊された。仮名垣魯文は江戸末期に活躍した文筆家で、維新以降に自身で新聞を発行したこともある人物。河鍋暁斎は幕末に活躍した狩野派の浮世絵師。仮名垣の文に河鍋が絵を加え出来た雑誌が『絵新聞日本地』である。日本地とはジャパン・ポンチを捩った造語だが評価は低く、僅か三号で廃刊に追い込まれる。内務省資料によると発行部数は九〇〇部。これが一号だけの数字か三号合計の数字かは不明である。
 翌年には橋爪錦造、月岡芳年による『寄笑(きしよう)新聞』が創刊された。編集人の橋爪錦造とは人情本や滑稽本で人気の作家、梅亭金鵞(きんが)。名を隠して刊行した処に自信の無さが漂う。絵を描いた月岡芳年は河鍋暁斎と同門の浮世絵師。『寄笑新聞』は三ヶ月間に一一号を出すも評価を得られぬうちに廃刊となる。
 その後明治一〇年三月に野村文夫が興した『團團(まるまる)珍聞』が漫画雑誌として成功を博す。野村はグラバーと通じ、幕末期に二年間スコットランドに密航。帰国後、新政府内務省に勤務したが四一歳の明治一〇年正月に依願退職。『寄笑新聞』の梅亭金鵞を主筆に招き『團團珍聞』を創刊。初年度一五万部、最盛時には年間二六万部を発行。明治四〇年まで毎週土曜日に発売し最終号は通算一六五四号となった。
▼『ジャパン・パンチ』を創刊した英人チャールズ・ワーグマンは北欧系移民の子とされるが謎の多い人物で、若い頃にはパリで画業の勉学に励んだとされる。一八五七年に『イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ』の特派員として広東に赴きアロー戦争を取材。同紙は一九世紀後半の英国で三〇万部超の最大部数を誇った新聞で、その後日刊紙から週刊誌へ、そして月刊誌、季刊誌となり現在も続いている。写真製版技術は一八八〇年に完成したが新聞雑誌に写真が掲載されたのは二〇世紀に入ってから。それまでは絵入りの情報紙が持て囃された。臨場感溢れるペン画と文章力を評価されたワーグマンは一八六一年に広東から長崎に渡り、駐日英全権公使ラザフォード・オールコックと合流、江戸に向かう。因みにオールコックは初めて富士登山を行なった外国人。修好条約が結ばれた安政五年から駐日総領事として滞在し、駐日米公使ハリスや駐日仏公使ベルクールとの間に凄まじい駆引を行なった人物。ワーグマンはオールコック一行と長崎から三四日間の旅の果て、高輪東禅寺に宿泊した処、攘夷派浪人一四名に襲撃される。世にいう東禅寺事件である。この襲撃の模様を『イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ』に配信。その後慶應三年(一八六七年)には徳川慶喜がパークス英公使、アーネスト・サトウと会見した際にもワーグマンは同席している。
▼駐日全権公使オールコックは支那勤務一五年の実績を買われ、大英帝国の極東戦略という重責を担い、駐日米仏公使等と対立し時に共謀し、幕府を操って露国を排し時に幕府を欺き、三年という短期間で日本各地を歴訪し日本文化に心酔する。開港延期を主張する幕府を背後から支援し、自ら休暇を取って遣欧使節団に同行。著書『大君の都』には幕末日本の状況が見事に描き上げられる。『ジャパン・パンチ』のワーグマンもオールコック同様に大英帝国の諜報員として日本を基底部から腐食する意図を持って侵入するも日本文化の真髄に触れて心酔。日本人妻を娶り二五年間『ジャパン・パンチ』の刊行を続ける。明治二〇年、英国に帰国するも日本が恋しくなり半年で再来日し明治二四年二月に横浜で死去。横浜外人墓地に葬られる。
 オールコックやワーグマンを日本贔屓に仕立てたのは、彼らが農村で巡り合った純朴で礼儀正しい日本の庶民大衆だった。武力を背景に無関税完全自由通商を求める欧米列強に蹂躙されながらも、瀬戸際で耐え抜くことができたのは庶民大衆の底力ゆえのことと心得たい。(黄不動)