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  新還都論 Ⅲ 復古こそ維新なり
       (世界戦略情報「みち」平成15年(2663)5月15日第162号)

●明治維新このかた、わが国は欧米列強の自由貿易主義=植民地覇権主義に対抗するため、常に戦時非常体制を強いられて、社稷の確立は二の次にせざるを得なかった。いわば、火事場の急に対応するのに忙しく、根本的な防火体制の確立が等閑にされたのであった。
 玉松操の起草にかかる「王政復古の大号令」も、草稿では「建武新政への復古」を謳っていたものが、玉松の師大国隆正の叱正により「神武創業への復古」に改められた、という逸話を三橋一夫に教えられたことがある。
 尊皇思想の未曽有の盛り上がりによって、機能不全に陥った幕藩体制に揺さぶりをかけ、小規模な戦闘はあったが外国勢力に支援を許す国家分裂という最悪の事態は辛くも回避しつつ成し遂げられた明治の回天維新もまた、わが国独自の文明に基づく国家体制の確立という意味では未完の革命だったのである。
 新国家の社稷確立の任を担うべき大国隆正の門弟たちも、明治四年から九年の政権内部の権力闘争により要職から一掃され、「復古」の充実を図る人材は皆無となった。維新政府はそれ以後、福沢諭吉流の「文明開化」路線をひた走る。
●明治維新にさいして「王政復古」が叫ばれたが、それは「復古」とは言いながら、実は日本列島全域に及ぶ「神国日本」の新しい国家体制を樹立するという意味で歴史上初めての課題に直面していたのだった。
 わが国の歴史を省みれば、神武天皇ご創業に自覚された「肇国の理想」すなわち「神国日本の建設」が十全に実現された時代は残念ながら存在しない。天皇の「祭ごと」を承けて「政ごと」を付託された各時代の最有力者が「神国日本の建設」を想わず、ひたすらに「私領」の拡大に専心したからである。だが、わが国が国家的な危機に直面するたびに自覚されたことは、「祭ごと」と「政ごと」の一体化であったと言ってよい。
 明治維新を担った尊皇の志士たちは、前時代の幕藩体制の下ではむしろ不遇な下層階級に属する者たちだった。下層の武士や貴族、また町人たちだったのである。この意味で、明治維新においては、その意向を絶対に無視できない最有力者なる者は存在しなかった。
 したがって、維新回天の事業における勲功はあっても、それをもってただちに「私領」の拡大に趨る怖れはなかった。すなわち、明確な指針さえあれば、わが史上初めて「神国」に相応しい国家体制が実現できたはずなのである。それは天皇の「祭ごと」を基とし、政権担当者の「政ごと」に一致協力するという国家体制であったはずである。
 しかるに、「政ごと」に自信のなかった政権担当者たちは、天皇をいわば借りだして東京に遷都し、その後もお返し遊ばすことなく、借りっぱなしになっているのが現状である。いま改めて未完の維新を引き継ぐ第一歩は、天皇陛下の「祭ごと」の府を大和・飛鳥に戻すことである。それこそが、西洋流の発展史観を脱却する日本文明の発露となろう。ただ、「政ごと」としての首都は東京であってもかまわない。ゆえに、「還都」という。
●西洋文明の基本的性格をよく表わしている「発展史観」とは、その本質をなす征服掠奪の所業を湖塗するための文飾に過ぎない。その文飾の緻密、規模の大、廉恥を弁えぬ横柄に恐れ入った明治の先人たちは、それを文明と勘違いして、我を卑小とし彼を貴しとして「文明開化」に邁進したが、それは早合点であった。文明にあらざる彼の「発展史観」に対置すべき言葉はわが国にはない。そこで、誰もが抱いている思いを仮に「共生史観」とでも名づけよう。この「共生史観」からは、強奪の市場原理も植民地主義も出てこない。共に生き、共に栄え、不足があれば補い合い、助け合う暮らしぶりがあるばかりである。そして、「共生史観」の根底にあるものは、先人の亀鑑であり倣うべき倫理である。「復古」とは、原理の深化であり維新なのである。大和・飛鳥への還都こそ、わが日本文明の実現であり、社稷の根本を建てることである。