みょうがの旅    索引 

                    

 本邦ツラン民族運動の先駆者今岡十一郎
          (世界戦略情報「みち」平成17年(2664)9月1日第190号)

●本号の「常夜燈」欄では「ツラン問題」を採り上げている。トルコとハンガリーで産声を上げた「ツラン民族運動」をハンガリーから本格的に日本に紹介し、みずからその運動の先頭に立ったのが、今岡十一郎(一八八八~一九七三)である。今岡十一郎は明治二〇年に島根県松江市に生まれ、大正三年に東京外国語学校ドイツ語科を卒業した。
 おりしも、来日中のハンガリーの民俗学者バラートシ・バローグ・ベネディクのアイヌ・ギリヤーク・オロック民族調査旅行に同行したのが縁で、バラートシ[ハンガリーでも日本と同じく、姓─名の順で名前を表わす]から日本における「ツラン民族運動」の普及のため協力を求められた。
 バラートシは大正一〇年にも再来日した。日本に「ツラン民族同盟」が結成されるのはこの時のことである。今岡は通訳・翻訳者としてバラートシに協力した後、翌大正一一年にハンガリーに渡った。昭和六年(一九三一)までおよそ一〇年もの長い間ハンガリーに滞在した今岡は、積極的にハンガリーのことを学ぶとともに、ハンガリーで日本人として初めて日本について紹介した。
 実にこうした今岡の活動がきっかけとなり、名門エォトヴェシ・ローランド大学で日本語の講義が始まったのが、今岡が渡洪した翌年一九二三年であった。同大学のアジア言語・文学科の責任者に迎えられて、日本語教育の中心となったのは、著名なトルコ学・言語学の権威プルーレ・ヴィルモシュであった。
 そのプルーレも一九二〇年代に日本を訪れ、ツラン民族運動の普及活動を行なっている。また『日本民族文学の小鏡』という日本文学に関する著作もある。
(以上は、大杉千恵子「ハンガリーにおける日本語教育史概観」『国際開発研究フォーラム』23 号、二〇〇三年三月による)
●ハンガリーが日本に対して熱い視線を注いだ背景には、日露戦争における日本の勝利が大いに与っていたことは容易に想像される。大正一四年ハンガリーで日本語教育が始まるのと同時に、御料馬として購入された「吹雪」「白雪」二頭がハンガリーから到着している。
 そもそも、侵蝕するロシア帝国の汎スラブ主義に対抗して、クリミア生まれのトルコ系ロシア人のイスマイリ・ガスプリンスキーがロシア帝国とオスマン帝国内に分散していたトルコ系の諸民族に対して「トルコ民族よ、団結せよ!」をスローガンに汎トルコ主義を高々と掲げて、露土両語紙「トルクメン」を創刊したのは一八八三年だった。
 日本がロシアに勝利すると、汎トルコ主義は俄然勢いを得て、オスマン帝国の首都であるイスタンブールでもユスフ・オグルにより「トルコの源郷」紙が創刊(一九一一)され、やがてそれは単なるトルコ系諸民族を超えた「ツラン民族」への呼びかけに発展してゆく。小説家のハリデ・エディブ・アディヴァルが一九一二年に刊行した『新たなるツラン』はツラン民族の自覚を描く記念碑的作品である。
●「ツラン民族」としての自覚という点からすると、あるいはハンガリーの方が早かったかも知れない。というのも、「ツラン協会」という組織が早くも一九一〇年にはハンガリーで結成されているからである。「ツラン同盟」は一九二〇年ころに成立したとされている。
 帰国した今岡十一郎は日本とハンガリーとの間の文字通りの架け橋となった。

  「日本ツラン協会」(一九三〇年代初め設立)
  「日洪文化協会」(昭和一三年)


など友好機関の設立に尽力すると同時に、ハンガリー関係の著作を次々に刊行した。

  『ツラン民族運動とは何か──我等と血をひくハンガリー』(日本ツラン協会、一九三三年)
  『ツラン民族圏』(龍吟社、一九四二年)
  『洪牙莉より観たる汎スラブ主義と汎ゲルマン主義』(日洪文化協会、一九四四年)

 さらに、日洪交流の基礎として絶対不可欠の『ハンガリー語辞典』(日洪文化協会、一九七三)を刊行、長女の手で改訂され完成した(大学書林刊)のは平成一三年であった。