みょうがの旅    索引 

                    

  産鉄民族キルギス人 3
  (世界戦略情報「みち」平成20年(2668)4月15日第270号)


●「日本文化の美意識は平安時代に頂点を極め、後はその模倣に過ぎない」と断言するのは、鈴木利男さんである。鈴木さんは幼くして日本画家を志しながら戦争勃発により学徒動員に従って九死に一生を得、戦後は混乱の中で生きのびるため宣伝業界という新分野の草分として成功を収めつつも素志止みがたく、書に画に研鑽を重ねて、その畢生に到達したる境地を「英霊たちの言霊──書画に甦る若者決死の声展」と題し、靖国神社遊就館特別展として一般の観覧にも供されたことは、本誌でもご紹介させていただいた。展観された作品のすべてを靖国神社に奉納したいとの鈴木さんの申し出に対して、靖国神社はこれを嘉納し、永く大切に所蔵して折にふれ展示にも用いることとなった。鈴木さんの書画が日本人の琴線に触れた紛れもない証とはいえ、前代未聞の快挙であり、思う度に熱く深い感動を覚えずにはいられない。
●その鈴木さんの断言だけに、冒頭の言葉は重い。素より唯物史観流の発展史観には与する心算もないが、平安時代でバッサリ斬られたのでは、実朝は芭蕉はどうなるのか……。
 だが、素直な気持ちになって考えてみると、刀剣においても粟田口頼国だの相州正宗だのと鎌倉時代以後の名刀が数多い中で、古来より名刀中の名刀として名高いものがある。いわゆる、「舞草刀」(もうくさのつるぎ、又は、もくさとう)である。岩手県一関市字舞草(平泉市と一関市の境界あたり)に鎮座する式内社儛草(まいくさ)神社の東参道入口案内板にはこうある。

 この舞草の地は平安時代より刀鍛冶が集団で住まいした所と伝えられ、舞草刀は日本刀が直刀から湾刀へと移り変わる時期の初めの頃とされています。
 刀剣に関する代表的な古伝書に鎌倉時代に書かれた観智院本銘尽がありますが、この中でも舞草鍛冶の刀工が数多く記述されており、その場所は、ここから直線距離で北西約七〇〇mの白山岳周辺にあったと伝えられております。舞草鍛冶は往時の陸奥国にあって武器づくりの集団として欠くことのできない存在でした。

 郷土自慢の観光案内にしては、驚くほど控え目で微笑ましいほどだ。実は前九年の役(一〇五一~六二)で八幡太郎義家が敵の七、八人を一度に撫斬りにしたとき、その刀はあまりの切れ味だったために敵の髭までも切れてしまった。だが、後世「髭切の大刀」として源家伝来の名刀となるその刀は、奥州鍛冶の文寿が鍛えたもの。文寿といえば、舞草鍛冶の名工だったのだ。義家はいわば敵側の名工による剣を揮って敵の安倍氏を撫斬ったことになる。
 そればかりではない。正倉院御物にも「舞草刀」がある。「蝦夷」側から聖武天皇へ献上されたもので、少なくともすでに奈良時代には、陸奥舞草に刀工集団・鍛冶集団が確かにいた。
●この舞草鍛冶こそは遙かユーラシアの彼方、キルギス産鉄族と深く関係するのではないか、というのが私の想像である。栗本によれば、古代遠隔交易ルートの最重要路線であった草原の道は東に延びて旧満洲から沿海州に及び、そこから日本海を越え、「日の本」と当時呼ばれていた青森岩手地方に達し、さらに畿内へと続いていた。つまり、草原の道はまず陸奥と通じていたのである。草原の道の蜜蝋・絹・黒貂の皮・奴隷などと並ぶ最重要交易品の一つが「鉄」であり、そして交易路の東西両端の地に産鉄族がいた。両者に深い縁があると見るのは、私の独断か。