みょうがの旅    索引 

                    

 反支那地帯を行く ──西川一三の秘境西域潜行 1
     (世界戦略情報「みち」平成20年(2008)6月1日第273号)

●西川一三(かずみ)『秘境西域八年の潜行』を漸く中巻まで読み終えた。なにせ文庫版(中公文庫)とはいえ、六百余頁の本で上中下の三巻もある。ただ、中味は圧倒的に面白く、読みはじめには一気に読み通したい衝動に駆られた。だが、途中まで進んで、西川一三の粒々辛苦の旅そのものを知るにつけ、さらには本書を書き上げる際の苦労に思いを馳せるようになって、サッと読んだのでは申し訳ないような気持ちになったのだった。そこで、旅程の区切りごとに「無人境篇」「チベット前編」「ヒマラヤ篇」などと分けてある中に、さらに小見出しが1、2、3、……と番号で振ってある。この小見出しのひとつ分を読んだらひとまず休んで、内容を反芻することにした。それで、中巻まで来るのに半年近くかかったのだ。
●西川一三は木村肥佐生(ひさお)とともに戦前の昭和一五年に内蒙古の厚和に開設された「興亜義塾」の卒業生であった。興亜義塾とは日本のための中央アジア工作に挺身する日本人青年を教育する、いわばスパイ養成機関である。木村はその第二期生、西川は第三期生だった。そして、昭和一八年それぞれが別々に蒙古人ラマ(僧侶)に扮装し、内蒙古→青海→チベットを横断する諜報活動の旅に出る。ところが奇怪にも、その目的は、「とにかく行ってこい」式の曖昧模糊としたものだった。そして、祖国敗戦を潜伏先のチベットで知った西川が戦後も時間が経った昭和二五年に漸く帰国して調査成果を報告しようと外務省を訪ねたところ、「それどころではない」と玄関払いを喰わされた。いまだ占領下にある外務省にとって「秘境西域」での調査報告など何の益もない疫病神のようなもので、さっさと忘れてしまいたい「大東亜共栄圏」という悪夢の名残と思われたに違いない。
●西川を木村を送りだした日本はその復命を何ら必要としなかった。ここに日本の底の浅さがある。木村肥佐男は早くに『チベット潜行十年』を著わし、西川一三は『秘境西域八年の潜行』を著わした。単なる旅行記として読まれても充分すぎるほど面白いが、西川報告は日本の対外政策とくにユーラシア政策を立案する上において不朽の価値をもっていると私は思う。木村報告はまだ読んでいないが、西川の本を読んでまざまざと分かるのは、西川一三が「秘境西域」で出逢った人々のもつ反支那感情の根強さである。さらに、もうひとつ教えくれるのは、そこには、われわれ日本人と道義を同じくする兄弟がいるということである。私流の別の言葉でいえば、紛れもなくそこに「ツランの同胞」がいるのである。
●「同文同種」「一衣帯水」などと嘘八百を言いつのる支那と日本が関わりを持って碌なことはなかった。遣唐使の廃止を進言した菅原道真公がいまに庶民の厚い信仰を集めるのも御霊信仰説など学者のたわごとで、その卓見の
故ではなかろうか。支那との付き合いは本号常夜燈に説くように「和して同ぜず、敬して遠ざける」のがよい
のである。聖火リレーで俄にチベット問題が再燃したかに見えるが、チベットが支那から独立するのは、いずれ
時間の問題だろう。青海チベット鉄道の開通によって、チベットの破壊はいまや急ピッチとなっている。だが、
支那が関与すればするほど、チベットは離れていくだろう。なぜなのか、西川一三の潜行調査報告が教えて
くれる。(つづく)