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 反支那地帯を行く ──西川一三の秘境西域潜行 2
     (世界戦略情報「みち」平成20年(2008)6月15日第274号)

●朝鮮戦争が起きる直前の昭和二五年夏、西川一三はGHQから突然の出頭命令を受け取った。八年ぶりに敗戦の祖国に帰還してまだ一ヶ月も経たない時であった。米国の情報機関は西川や木村の動向をチベット滞在中から掴んでいた節がある。そこで、西川が故郷に帰ってホッとしたのも束の間、早速GHQから出頭せよと呼び出し命令が出されたのである。もちろん、いまや中共とソ連に挟まれる国際的要衝地帯となったラマ教圏を身をもって踏査した西川から情報を搾り取るためにほかならない。
 GHQによる情報搾取は東京駅前の郵船ビルの一室で、土曜半日と日曜日に休むほかは毎日九時から四時まで、およそ一年間にわたって続けられたのだった。こうして出来上がったのは、大陸の広大な地域を網羅する正確無比の兵要地誌だった。それは内蒙古から出発して寧夏省、甘粛省、青海省、チベット、青康省、インド、ネパール、ブータンと西川一三が踏査した地域の詳細な地図が基本となった。その地図には、各部落の所在はもちろん、部落内の民家の数までもが記されていた。そして地誌には、各地の地勢、気候、民族、風習、軍事設備・兵力、ラマ僧の状態や廟の構成など西川の知る限りの詳細な情報が盛りこまれていた。
●実は、西川は不本意ながらGHQによる情報搾取に応ぜざるを得ないことを予期し、その前に正式の復命報告をしておきたいと外務省を訪れたのだったが、そこで玄関払いにも等しい扱いを受けたことはすでに述べた。西川の潜行八年間の表向き身分は「張家口日本大使館調査室勤務」というもので、その証拠に行方不明者とされながらも終戦まで大使館から両親の元へ月給が送られていたのだ。復命する義務があると考えるのは当然である。
 西川一三の例が教える教訓は、日本が諜報活動の成果である情報の取扱においていかに拙劣かつチャランポランであるかということだ。優秀な諜報員がいないのではない。貴重な情報が蒐集されないのでもない。せっかく優秀な諜報員が苦心惨憺して貴重な情報を集めて送っても、それがまったく中央で顧みられないのだ。戦前のスペイン大使須磨彌吉郎が送った東機関の情報にせよ、イタリア大使白鳥敏夫が操った「ふくろう」の情報にせよ、外務省公電のファイルに綴じられてただ死蔵されただけである。西川の得た情報は日本の公的な機関に所蔵すらされなかったのだ。
●すっかりGHQに情報を吸い取られた感の西川は、それでも反骨の忠誠心を忘れてはいなかった。

 八年間死地をくぐり、日本政府から一顧にも付せられなかった私はこの間、日当一千円を米軍から受取っていた。……私は貴重な情報をアメリカに売るのかという、心のとがめを感じないわけではなかった。が、それならば何故、外務省が私にしかるべき態度をとらなかったのかという反撥の心があった。……しかし私は、通訳と向き合う生活をはじめて間もなく、すすめてくれる旧師もあって私なりのひそかな決心を固めていた。……決してGHQには売らない八年間の自分の足跡というものを、自分のものとして真実の記録として残すことを思い立ったのである。(『秘境西域八年の潜行』上巻一九頁)

 その真実の記録こそが、中公文庫の『秘境西域八年の潜行』上中下三冊に結実したものなのである。(つづく)